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TOPICS!“日本のお城”を100倍楽しむ方法
七尾城

城=天守閣?いいえ、そうではありません。天守閣は城の一部であり、逆に天守閣がなくても立派な城です。歴史的に、城は戦闘用の砦として始まり、権力の象徴として、政治の中心地として、発展してきました。

『城』とはその字からして「土で成る」すなわち土塁のこと、もしくは「土地を成すもの」すなわち自分たちの土地を守るもの、を総称しています。起こりとしては恐らく縄文時代の前、旧石器時代に自らの住居を守るために作った柵、土塁といったものが最初だったのでしょう。

平野の多い中国、欧州等で町全体を囲む城壁のような形で進化していったのを参考に、平安時代は平城京、平安京といわゆる都城制を採用していきます。ところが山・川・谷が多い日本では完全な都城制がとれず、守るのに便利な山の上に実戦的な城を作るようになっていきます。

戦国時代を通じて、そうした城が大勢を占めていました。天守閣の先駆けとして有名な安土城も山城の一種です。そして江戸時代になり、実践的意味合いの城が不要となるにつれ、平野部に城が作られるようになり、権力の象徴として天守閣が大きく華美になっていきました。

今残っている遺構は、やはり江戸時代に作られた城がほとんどですから、その城には天守閣があることが多く、象徴としての天守閣は真っ先に再建の対象となりました。だから城と言うと天守閣があることが多く、それゆえに「城=天守閣」というイメージにつながってるんでしょうね。

「トピックス」では日本のお城を見るにあたって知っておいた方がいいと思われる知識を網羅したいと思います。標題はありがちな「100倍楽しむ方法」なんて書きましたが、このページを見て城を見ると絶対見方が変わるはずです。心して読んでください。

「城の構成要素」

天守

「天守」という言葉の由来は、いくつか説があるが、その構造と一致するのは「殿主を守る建築」とする説であろう。殿主とは城の中心になる建物群のことで、その中の最も中心となる建物の上に望楼を置いた。物見の目的もあったのであろうが、次第に城を象徴する建物となっていった。それが「殿守」「天守」と変化したとするものであり、最も理解しやすい説ではないかと思われる。

さて、では天守はどういった変遷をたどったのか、見ていこう。

“望楼型天守”
1600年ごろまでの初期天守は入母屋または切妻造りの櫓の屋根の上に望楼を乗せた形態を取っている。現存例としては「丸岡城」「犬山城」がそうであり、古風で趣深い。

“過渡期型天守”
望楼型と層塔型の中間的に位置する形態である。外見は下部と上部が一体化しているように見えるが、構造上完全に一体化していない。例としては、「松本城」「広島城」「姫路城」など。

“層塔型天守”
慶長中期以降はほとんどがこの形態を取っており、階層分が構造上完全に一つの建物となっている。構造上は進歩したものの、上下各階層の変化に乏しく、単調である。例としては「名古屋城」「大阪城(徳川)」「福山城」などがある。

具体的には、

トピック2「天守閣特集!!」へ

 

姫路城天守

御殿

「天守」を知らない人はいないだろうが、「御殿」を知らない人は結構いるかもしれない。これも城の一構成要素であり、実際に城主が生活をした建物である。

“城”というと「殿様が暮らす場所」とイコールに考え、前述したように「城=天守閣」と考えると、どうしても殿様は天守閣で暮らしていたように考えてしまうが、考えて見るとあんな急階段とあんな狭い場所で実際に一番偉い人が過ごすわけは無いのである。天守は戦争時にみんなが集まった場所であり、それ以外はほぼ物見にしか使われなかったものと思われる。

「え?でも御殿なんて見たことないよ。」とおっしゃる方も多いだろう。天守閣を復元している城でも、御殿を復元しているところはほとんどない。あえて挙げるなら彦根城(槻御殿)くらいだろうか。かつ、現存している御殿も非常に数少なく、本丸御殿が完存しているのは唯一高知城のみなのだ。

その他には、川越城(本丸御殿の玄関と大広間)二条城(二の丸御殿、本丸御殿は移築)掛川城(二の丸御殿)があるくらいである。なんと言っても太平洋戦争で焼失するまで現存していた名古屋城本丸御殿は二条城と双璧といわれていただけに、本当に悔やまれるものである。

 

二条城二の丸御殿

櫓は古くは「矢倉」「矢蔵」などと書き、呼んで字のごとく、矢を並べておいて戦争時にそれを射るための建物のことを言う。

櫓には大きく分けて二種類ある。

“隅櫓”
曲輪の石塁の隅に上げられる櫓であり、一層、二重がほとんどであったが、三重櫓もまれにあった。現存する隅櫓は「弘前城の丑寅櫓、辰巳櫓、未申櫓」「明石城の坤櫓、巽櫓」「江戸城の富士見櫓」「名古屋城の清洲櫓」「彦根城の三の丸三重櫓」「高松城の月見櫓」「熊本城の宇土櫓」がある。

また、これは天守閣なのだが、名前だけ櫓と呼ばれるものがある。「御三階櫓」「御三階」と呼ばれるもので、これは江戸城が明暦の大火で天守が焼失して後は、三重の富士見櫓を天守の代用としたために、関東を中心に幕府に遠慮して天守とは呼べなかったというのが真相。(例外は小田原城と沼田城)これらは隅櫓の一種とも考えられるが、役割から考えて天守と分類するのが適当かと思われる。

“多聞櫓”
塁上に長屋作りの建物を構えたものをいう。松永久秀が多聞山城に毘沙門天を祭るための建物を建てたのが始まりと言われる。通常は倉庫となるだけのものであるが、姫路、和歌山、松山のように天守群を連結するために作られる多聞櫓もあり、この場合武者走り廊下の役割を持ち、「渡櫓」とも呼ばれる。

単層のものがほとんどで、久留米城や岡山城にあった重層の多聞櫓は現存していない。現存する多聞櫓としては、「江戸城の富士見多聞」「伊勢亀山城」「福知山城の銅門続櫓」「福岡城」「高知城東多聞」がある。

“櫓門”
城の構成物は単独で存在するものだけでなく、複合的に存在するものも多い。これもその一つで、城門の両側の石垣の上に渡櫓を乗せる形を取り、石垣の間に扉を設置したものである。この形態は桝形の二の門を形成する。

 

熊本城宇土櫓

城門

城の出入口に立てられた城門は、敵の攻撃が集中するものであるため、様々な工夫を凝らしたものが生まれた。分類の仕方として「構造」「用途」による二種類の分類ができる。

“構造による分類”
石門・埋門・棟門・四足門・高麗門・櫓門・薬医門・冠木門・長屋門・唐門

“用途による分類”
大手門・搦手門・不開門・不浄門・水門・太鼓門・鉄門・食違門・潜門

 

出石城

桝形

聞きなれない言葉かもしれないが、この桝形は城の大手門を形成する、重要な城の一要素である。近世に作られた中規模以上の城の大手門は、大抵がこの様式を取っており、城で最も防御しなければならない虎口に作られた。

右の図の形が最も基本的なもので、堀を渡って最初にある場外に面する門が「一の門」であり、高麗門が多く用いられ、城内に面する門が「二の門」で櫓門が用いられた。甲州流兵学によると「五八の桝形」が良いとされ、これは大きさを示していた。これは騎馬武者なら30騎、徒歩武者なら240人を収容できたと言われる。とはいえ、慶長以後の城ではこれよりはるかに大きい枡形も作られており、あくまで基準である。

さて、では城の大手門にどうしてこの形態が多く用いられたのか。まず第一に敵の直進進行を防止する役割を担った。ここで一時期立ち往生させておき、周りから弓矢、鉄砲等で集中攻撃を加えるのである。
2点目は出撃、もしくは帰城時に兵士を待機させる「武者溜り」の機能である。外門を閉じ、内門を開いて城兵を枡形に入れ、そして内門を閉じて外門を開き、出撃する。帰城するときはその逆を行うのであるが、これは年の為という事もあるが、出撃時には隊形を整える、帰城時には不審者のチェックといった機能も果たしていた。

形式は城の地形によって、設定位置によって様々であるが、一の門を入って右へ折れて二の門へ入る形態(右図)が最も多い。現存遺構としては「江戸城」(大手門、外桜田門、桔梗門、清水門、田安門)「金沢城」(石川門)「丸亀城」(大手門)左折れの桝形は、「大阪城」(大手門)「江戸城」(平河門)があり、直進型は現存していない。

なお、西国では石材の産地が多く枡形が発展したが、東国では同じような機能を持つ「馬出」が発達した。戦国期、武田氏は丸馬出を、後北条氏は角馬出が多く作られた。

 


丸亀城桝形

いわゆる倉庫であり、当然城には多くの蔵があった。形態、貯蔵物により様々な蔵が存在した。

穴蔵、石蔵、焔硝蔵、金蔵、塩蔵、薪蔵、武具蔵、弓蔵、作事方蔵、書物蔵、呉服蔵、船蔵などがあった。

 

彦根城

城外と城内、郭と郭を連絡するために架けられた。材質、役割により様々な橋が存在した。

木橋、土橋、石橋、車橋、算盤橋、筋違橋、折長橋、長橋、並橋、廊下橋、二重橋、拮橋、船橋、梯子橋など。

 

会津若松城

真壁造、大壁造、下見板張

 

築地塀、練塀、釣塀、海鼠塀、控塀、剣塀、切戸塀、長塀、油塀、足駄塀、屏風塀

 

石垣

  • 野面 (勾配=45度)
    • 穴太積 自然石を加工処理を全くせずに適当に積み上げたもの。
    • 矢筈積 地盤の傾斜面に従って順次落し込む様に積んだもの。(落し積)
    • 笑い積 石の隙間が人が口を開いたように見える積み方
    • 亀甲積 六角形の切石を蜂の巣状に積み上げたもの。
    • 備前積 あくまで自然石を用いるが、形を選んで積み上げる。
    • 牛蒡積 奥行きの長い石を選んで表面は隙間だらけ、奥はしっかり組まれてある。

     
  • 打込ハギ (勾配=36度)
        石の角を叩き、合端を合わせる積み方。一番多く用いられる。
     
  • 切込ハギ (勾配=30度)
        ノミやタガネで削り、石と石を密着させる積み方。
    • 亀甲積 六角形の切石を蜂の巣状に積み上げたもの。

 


伊賀上野城高石垣


大和郡山城石垣

庭園

藩主の別邸園として造成されたものであるが、非常時には臨時要塞として機能するように作られたものが多い。現在以下のような庭園が残る。

  1. 御薬園(会津若松城・松平氏)
  2. 兼六園(金沢城・前田氏)
  3. 偕楽園(水戸城・水戸徳川氏)
  4. 浜御殿(江戸城・徳川氏)
  5. 玄宮園(彦根城・井伊氏)
  6. 浜庭園(和歌山城・紀伊徳川氏)
  7. 後楽園(岡山城・池田氏)
  8. 縮景園(広島城・浅野氏)
  9. 栗林園(高松城・松平氏)
  10. 天赦園(宇和島城・伊達氏)
  11. 花畑園(柳川城・立花氏)
  12. 水前寺園(熊本城・細川氏)
  13. 仙厳園(鹿児島城・島津氏)

 

高松城栗林園

井戸

城の飲料水、生活用水の確保には特に気を払われた。篭城時、城外から水を引き入れることは敵に水路を遮断されたり、汚物や毒物を投入される危険性があるからである。そのため、城内に井戸を掘り、貴重な水源とした。(逆にいうと、井戸の掘れる場所を地取りしたとも言える。)

姫路城、大阪城、熊本城、江戸城、名古屋城などに現存する。特に熊本城はなんと125個もの井戸が掘られたという。

 

土居

いわゆる土塁のことであるが、堀を掘ったときに出る土で築かれた。

  • 敲土居  粘土や小石を混ぜて固く積み上げる。勾配は45度くらい。
  • 芝土居  敲土居の斜面に芝を重ね、竹の杭で刺して繋ぎ止める。勾配は60度くらい。
  • 鉢巻土居  芝土居の上に1〜2メートルの石垣を築いたもの。
  • 腰巻土居  石垣の上に土居を築いたもの。
  • 水敲土居  土居の水際にわずかに石垣を築いたもの。
近世大名の城では、西国では石材の産地が多く、石垣造りのものが多く、逆に東国では土塁造りの城が多い。
  • 土塁だけの城    水戸城、米沢城、佐倉城、岩槻城、久保田城など
  • 本丸以外は土塁造りの城    弘前城
  • 城門、天守台などだけ石垣であとは土塁の城    山形城、土浦城、前橋城、上田城など

 

戦国時代初期には槍で戦う距離である約5メートルの堀が必要となり、矢の有効射程距離の約30メートルの堀が、そして鉄砲の出現により、約60メートルもの堀が必要となった。しかしそこまでの堀を持つ城は些少である。(江戸城桜田掘50〜100m、丸岡城五角形内堀最大91m)

堀の種類

  • 空掘
  • 水掘
  • 沼田掘
  • 捨掘
  • 総掘

 

「城の作り方」

地取り

領国内のもっとも堅固な土地を選び、地勢、地形を勘案し、城地を定める。
黒田如水・・・山岳の要害ではなく、水陸の交通の便を重視。

 

縄張り

地勢、地形にあうように城のレイアウト(曲輪の置き方等)を定める。
藤堂高虎・・・江戸、伊賀上野、津、今治、大坂、篠山、膳所、宇和島の各城を担当。

 

普請

堀を掘り、石垣等を築く。
加藤清正・・・肥前名護屋城築城では築城総監督を務めた石垣造りの名人。

 

作事

天守、御殿、櫓、城門等の建築を行う。
小堀遠州・・・駿府城、名古屋城、二条城、大阪城の作事奉行。
中井正清・・・伏見城、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の作事に携わる。

 

「城の攻め方・守り方」

平攻め

正攻法による城攻めで、城の正面に布陣し、大手に総攻撃を加えることから始まる。ただ、平攻めでは篭城兵の約10倍の兵力がないと反撃を受けて敗れる場合がある。西南の役における篭城軍約三千人は装備に勝る西郷軍一万三千人に52日間に渡って攻撃を受けるも、退却を余儀なくさせた。
  • 強襲攻め・・・ひたすらに攻めまくる戦法であり、当然犠牲は多くなるが、攻める側の武将の力を誇示する上では格好の戦法。
        (例)信長の越前攻略、信玄の信濃攻略

 

長囲攻め

城を包囲し、城内と城外を全く遮断して長期間に渡る持久戦である。
  • 兵糧攻め・・・秀吉の得意戦法であり、城を包囲し、城内の食料を枯渇させる気長な攻城法。
        (例)秀吉の三木城、鳥取城攻め
  • 乾渇攻め・・・井戸の水脈を絶ち、城内の兵を干乾しにする。
        (例)信玄の二俣城、野田城攻め
  • 水攻め・・・秀吉の得意とする戦法であり、城の周りに堤防を築き、城の回りを水浸しにし、孤島化する。
        (例)秀吉の高松城、太田城、竹ヶ鼻城攻め

 

様々な戦術

  • 火攻め・・・戦国時代によく見られ、城に火を放つやり方。
  • 夜襲・奇襲・・・南北朝の動乱期を境にゲリラ戦が増え、夜襲に備えて不寝者が常駐するようになった。
  • つけいり・・・城外で応戦する際には門を開くため、それにつけいって攻め込む。
  • おびき出し・・・様々な噂を流し、篭城兵を城外におびき出す。三方ヶ原合戦が有名。

 

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