「城の構成要素」
天守 | 「天守」という言葉の由来は、いくつか説があるが、その構造と一致するのは「殿主を守る建築」とする説であろう。殿主とは城の中心になる建物群のことで、その中の最も中心となる建物の上に望楼を置いた。物見の目的もあったのであろうが、次第に城を象徴する建物となっていった。それが「殿守」「天守」と変化したとするものであり、最も理解しやすい説ではないかと思われる。 さて、では天守はどういった変遷をたどったのか、見ていこう。
“望楼型天守”
“過渡期型天守”
“層塔型天守”
具体的には、
| 姫路城天守 |
御殿 | 「天守」を知らない人はいないだろうが、「御殿」を知らない人は結構いるかもしれない。これも城の一構成要素であり、実際に城主が生活をした建物である。 “城”というと「殿様が暮らす場所」とイコールに考え、前述したように「城=天守閣」と考えると、どうしても殿様は天守閣で暮らしていたように考えてしまうが、考えて見るとあんな急階段とあんな狭い場所で実際に一番偉い人が過ごすわけは無いのである。天守は戦争時にみんなが集まった場所であり、それ以外はほぼ物見にしか使われなかったものと思われる。 「え?でも御殿なんて見たことないよ。」とおっしゃる方も多いだろう。天守閣を復元している城でも、御殿を復元しているところはほとんどない。あえて挙げるなら彦根城(槻御殿)くらいだろうか。かつ、現存している御殿も非常に数少なく、本丸御殿が完存しているのは唯一高知城のみなのだ。 その他には、川越城(本丸御殿の玄関と大広間)二条城(二の丸御殿、本丸御殿は移築)掛川城(二の丸御殿)があるくらいである。なんと言っても太平洋戦争で焼失するまで現存していた名古屋城本丸御殿は二条城と双璧といわれていただけに、本当に悔やまれるものである。
| 二条城二の丸御殿 |
櫓 | 櫓は古くは「矢倉」「矢蔵」などと書き、呼んで字のごとく、矢を並べておいて戦争時にそれを射るための建物のことを言う。 櫓には大きく分けて二種類ある。
“隅櫓” また、これは天守閣なのだが、名前だけ櫓と呼ばれるものがある。「御三階櫓」「御三階」と呼ばれるもので、これは江戸城が明暦の大火で天守が焼失して後は、三重の富士見櫓を天守の代用としたために、関東を中心に幕府に遠慮して天守とは呼べなかったというのが真相。(例外は小田原城と沼田城)これらは隅櫓の一種とも考えられるが、役割から考えて天守と分類するのが適当かと思われる。
“多聞櫓” 単層のものがほとんどで、久留米城や岡山城にあった重層の多聞櫓は現存していない。現存する多聞櫓としては、「江戸城の富士見多聞」「伊勢亀山城」「福知山城の銅門続櫓」「福岡城」「高知城東多聞」がある。
“櫓門”
| 熊本城宇土櫓 |
城門 | 城の出入口に立てられた城門は、敵の攻撃が集中するものであるため、様々な工夫を凝らしたものが生まれた。分類の仕方として「構造」「用途」による二種類の分類ができる。
“構造による分類”
“用途による分類”
| 出石城 |
桝形 | 聞きなれない言葉かもしれないが、この桝形は城の大手門を形成する、重要な城の一要素である。近世に作られた中規模以上の城の大手門は、大抵がこの様式を取っており、城で最も防御しなければならない虎口に作られた。 右の図の形が最も基本的なもので、堀を渡って最初にある場外に面する門が「一の門」であり、高麗門が多く用いられ、城内に面する門が「二の門」で櫓門が用いられた。甲州流兵学によると「五八の桝形」が良いとされ、これは大きさを示していた。これは騎馬武者なら30騎、徒歩武者なら240人を収容できたと言われる。とはいえ、慶長以後の城ではこれよりはるかに大きい枡形も作られており、あくまで基準である。
さて、では城の大手門にどうしてこの形態が多く用いられたのか。まず第一に敵の直進進行を防止する役割を担った。ここで一時期立ち往生させておき、周りから弓矢、鉄砲等で集中攻撃を加えるのである。 形式は城の地形によって、設定位置によって様々であるが、一の門を入って右へ折れて二の門へ入る形態(右図)が最も多い。現存遺構としては「江戸城」(大手門、外桜田門、桔梗門、清水門、田安門)「金沢城」(石川門)「丸亀城」(大手門)左折れの桝形は、「大阪城」(大手門)「江戸城」(平河門)があり、直進型は現存していない。 なお、西国では石材の産地が多く枡形が発展したが、東国では同じような機能を持つ「馬出」が発達した。戦国期、武田氏は丸馬出を、後北条氏は角馬出が多く作られた。
| 丸亀城桝形 |
蔵 | いわゆる倉庫であり、当然城には多くの蔵があった。形態、貯蔵物により様々な蔵が存在した。 穴蔵、石蔵、焔硝蔵、金蔵、塩蔵、薪蔵、武具蔵、弓蔵、作事方蔵、書物蔵、呉服蔵、船蔵などがあった。
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彦根城 |
橋 | 城外と城内、郭と郭を連絡するために架けられた。材質、役割により様々な橋が存在した。 木橋、土橋、石橋、車橋、算盤橋、筋違橋、折長橋、長橋、並橋、廊下橋、二重橋、拮橋、船橋、梯子橋など。
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会津若松城 |
壁 | 真壁造、大壁造、下見板張
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塀 | 築地塀、練塀、釣塀、海鼠塀、控塀、剣塀、切戸塀、長塀、油塀、足駄塀、屏風塀
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石垣 |
| 伊賀上野城高石垣
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庭園 | 藩主の別邸園として造成されたものであるが、非常時には臨時要塞として機能するように作られたものが多い。現在以下のような庭園が残る。
| 高松城栗林園 |
井戸 | 城の飲料水、生活用水の確保には特に気を払われた。篭城時、城外から水を引き入れることは敵に水路を遮断されたり、汚物や毒物を投入される危険性があるからである。そのため、城内に井戸を掘り、貴重な水源とした。(逆にいうと、井戸の掘れる場所を地取りしたとも言える。) 姫路城、大阪城、熊本城、江戸城、名古屋城などに現存する。特に熊本城はなんと125個もの井戸が掘られたという。
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土居 | いわゆる土塁のことであるが、堀を掘ったときに出る土で築かれた。
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堀 |
戦国時代初期には槍で戦う距離である約5メートルの堀が必要となり、矢の有効射程距離の約30メートルの堀が、そして鉄砲の出現により、約60メートルもの堀が必要となった。しかしそこまでの堀を持つ城は些少である。(江戸城桜田掘50〜100m、丸岡城五角形内堀最大91m) 堀の種類
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地取り |
領国内のもっとも堅固な土地を選び、地勢、地形を勘案し、城地を定める。 黒田如水・・・山岳の要害ではなく、水陸の交通の便を重視。
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縄張り |
地勢、地形にあうように城のレイアウト(曲輪の置き方等)を定める。 藤堂高虎・・・江戸、伊賀上野、津、今治、大坂、篠山、膳所、宇和島の各城を担当。
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普請 |
堀を掘り、石垣等を築く。 加藤清正・・・肥前名護屋城築城では築城総監督を務めた石垣造りの名人。
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作事 |
天守、御殿、櫓、城門等の建築を行う。 小堀遠州・・・駿府城、名古屋城、二条城、大阪城の作事奉行。 中井正清・・・伏見城、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の作事に携わる。
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「城の攻め方・守り方」
平攻め | 正攻法による城攻めで、城の正面に布陣し、大手に総攻撃を加えることから始まる。ただ、平攻めでは篭城兵の約10倍の兵力がないと反撃を受けて敗れる場合がある。西南の役における篭城軍約三千人は装備に勝る西郷軍一万三千人に52日間に渡って攻撃を受けるも、退却を余儀なくさせた。
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長囲攻め | 城を包囲し、城内と城外を全く遮断して長期間に渡る持久戦である。
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様々な戦術 |
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