山陽道of日本のお城
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日本のお城データベース「山陽道」
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播磨(Yahoo!兵庫南西部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

姫路城
近世
平山城(50m)
《大天守,東小天守,乾小天守,西小天守,イの渡櫓,ロの渡櫓,ロの櫓,ハの渡櫓,二の渡櫓》
〈ニの櫓,ホの櫓,ヘの渡櫓,トの櫓,チの櫓,リの一渡櫓,リの二渡櫓,ヌの渡櫓,ルの櫓,ヲの櫓,ワの櫓,カの櫓,カの渡櫓,ヨの渡櫓,タの渡櫓,レの渡櫓,折廻り櫓,化粧櫓,菱の門,帯の櫓,井郭櫓,帯郭櫓,太鼓櫓,水の一門,水の二門,備前門,いの門,ろの門,はの門,にの門,への門,との一門,との二門,ちの門,りの門,ぬの門,その他土塀31,築地塀1〉
[姫路藩]
1346年赤松貞範によって姫山に「姫山城」を築城したのが最初である。その後小寺、黒田と城主が変わり、中国攻めの先鋒羽柴秀吉の部将となった黒田官兵衛は秀吉に城を譲り渡し、その時に姫山と隣の鷺山を取り込んで城を拡張し、姫路城と改称した。関が原の合戦の後、家康により娘婿の池田輝政が入城し、秀吉時代の建物をすべて取り除き、縄張りも新たに築城した。1601年から9年かけて作られた大城郭が現在見られるものである。1993年12月、法隆寺と共に日本で初めての世界文化遺産に指定される。
国宝 姫路城(公式ページ)
ただひたすらすごい城だった。どうもこの城を甘く見過ぎていたようだ。もう文句のつけようがない。みんなすごいというし、文献でもそのすごさは理解しているつもりだったのだが、そんな物ではぜんぜんキャパが足りなかった感じだ。特に西の丸の櫓の中はもう圧巻。高知城でも似たような感覚に襲われたが、本当に感動で涙が出そうだった。また当たり前のことなのだがあれだけの大天守を本当に木だけで作っているのはただただ驚くばかり。その一番の支えである二本の大柱のうちの一本は一本木を使っているというからもう二重の驚異であった。他にも現存する遺構の多さにはただただ目をみはるばかりで、写真を撮るのも忘れてただ呆然と時を過ごしてしまった。これこそが日本が世界に誇れる最大の文化遺産であると確信できる、そんな唯一のお城ではないだろうか。(H9.3.14)
平成27年3月27日に平成の大天守保存修理が終了してグランドオープンしたというので、早速行ってみた。もう何回目だろうか、何度来ても飽きることがない。特に今回はとにかく白い。まさに出来立てといった感じである。これまでは白鷺城と言われても何となくピンと来なかったが、今回はしっくり来た。まさに白鷺が飛び立とうとしている感じである。たまたま平日に来ることが出来たので、さほどの混雑はなかったが、入口には行列のための紐が張られていた。聞く話によると休日は入るだけで大変だという話である。入場で待たされることはなかったが、中は完全に通路が固定されていて、順番に歩いてください、ということになっている。昔の雰囲気に浸りながら自分の行きたいところをウロウロするのが好きな人間としては、若干辛かったが、それだけ注目されている証拠である。これに文句は言えない。そんなこんなを差し引いても、やっぱりすごい城である。何というか、格の違いを見せつけられる感じ。本当によくここまで残ってくれたものである。(H27.4.21)
感状山城
近世
山城(275m)
1336年に赤松則祐が当城に篭城し、その戦功により尊氏から感状を与えられ、感状山城と称されることになった。その後赤松政村・晴政・義祐・則房と続き、1577年に羽柴秀吉の播磨攻略で落城したと伝えられる。
昭和56年以降遺構確認・実測調査が実施されているが、全城域の累壁を石垣で固め、いずれも4メートル以内、それ以上の高さは数段に構築されており、さらに累壁の角では緩やかにカーブしていることから隅石垣の技術が確立していなかったとみられており、戦国山城の石垣技術を解明する有力な資料である。
赤穂城
近世
平城
[赤穂藩]
兵庫県のページ
全国温泉案内『Oh!YU』のページ
大手門や隅櫓などが復元されていたがなぜか本丸の中には入れなかった。中でクレーンなどが見えていたから工事中だったのか、もしくは単に時間切れだったのか、定かではない。現存する建造物としては大石邸長屋門くらいなもので、敷地内に普通の民家などがあり、縄張りもわかりづらかった。大石神社が大きなスペースを取っているなど、忠臣蔵ファンのための観光地になっている感じだった。(H9.3.14)
明石城
近世
平山城
〈辰巳門,坤櫓〉
[明石藩]
明石市のページ
山ぽんのホームページ
尼崎城
近世
平城
龍野城
室町
山城
[龍野藩]
兵庫県のページ
立派な大手門があり、その奥に三之丸御殿と隅櫓があった。管理人さんの話だとすべて復元らしかった。脇坂氏が藩主となってからは三之丸しか使われていなかったらしいが、それ以前は山の上に天守閣を持った城郭を構えていたらしい。そちらの跡も見に行きたかったのだが赤穂にも行きたかったので急いで帰らねばならず断念。(H9.3.14)
三木城
戦国
丘城
[三木藩]
山ぽんのホームページ
平福城(利神城) [平福藩]赤松氏の家臣別所氏によって築城。
山ぽんのホームページ
鹿澤城 [山崎藩]

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美作(Yahoo!岡山北東部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

津山城(C)
近世
平山城
[津山藩]
1616年、森忠政が13年の歳月をかけて築いた輪郭式の近世平山城。五層の天守と60もの櫓があった。明治6年に廃城、翌年建物はすべて取り壊されたが、石垣はほぼ当時のものをとどめる。現在、備中櫓が復元工事中であり、平成17年3月完成予定。
津山観光センターのページ
広大な土地にほとんど手が加えられていない立派な石垣が残り、非常に素晴らしい城跡だった。特に本丸周辺は、石垣の合間合間に細い通路があり、その趣深さといったらない。それこそ一日中城の中をうろうろしていたいくらいだった。
ちょうど備中櫓が復元工事中で、青いビニールシートがかぶされていたが、柵の外から中を覗いてみると、もちろん総木造りで、もう半分以上できているようなイメージで、完成が非常に楽しみである。(H15.9.7)
勝山城(E)
近世
[勝山藩]

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備前(Yahoo!岡山南東部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

岡山城
近世
平山城
〈月見櫓〉
[岡山藩]
1597年に宇喜多秀家が完成させたと伝えられ、六階の天守を持つ壮大な城郭であった。天守の初重平面は五角形の特殊なものであり、天守前面を殿主曲輪といい、本丸内に本段ともいう区画を持った古式手法によるものであった。その後小早川秀秋が入城し、領内の支城である亀山城・富山城などを廃して建物を岡山城へと移したと伝えられる。次いで入城した池田忠継が西の丸を整備、今に残る高石垣を構築した。1687年には池田綱政によって天守背後に後楽園が造園されたが、これは山里曲輪を兼ねた隠し城であった。今日では、月見櫓と西手櫓が残るのみである。
散々だった。まず岡山城に行ったのだが13,14日は展示物入れ替えのために休業というのである。まあどうせコンクリート城だから内部に入れても満足しないんだからいいようなもんだが、やはり来たからには入りたかった。でもまあ外観は文句無しに渋い。特に川のほうから見た城は五角形の突端部分が見えるため、他では見れない良さがある。(岡山城天守閣は天守台が不等辺五角形をしているため、一、二層部分が突き出た形をしていたのである。)(H9.3.13)
ということで、再度訪れてみる。内部はやはりというか、綺麗過ぎて味気ない。特にあのエレベーター。定員が10人と書かれてあるのだが、特に大きな人でもないのに10人でブザーがなる。しかも天守は6階なのに4階までしか行かない。といって大した展示があるわけでもない。どうもやはりよい部分はほとんど見つけられなかった。(H10.5.3)
岡山に着いたのが18時頃だったが、まだ明るかったので、見るだけ見に行こうということで、散歩がてら行ってみた。すると、「春の烏城灯源郷」というイベントをやっていて、21時まで中に入れるというではないか。これはラッキーだった。さて、感想だが、以前の感想では散々な書き方だが、今回はそこまでとは思わなかった。特に廊下門を入って、左に180度曲がって天守に向かう辺り、そこから天守に向かう石垣に挟まれた狭い通路、趣が半端ない。天守の中は全くもってつまらなかったが、まぁ外観復元だから仕方ない。驚いたのは、天守の中にいたのはおそらく100%外国人だった。特に中国と韓国の人がほぼすべてと思われる。これが城と思わないで帰ってほしいと切に思う。それから、イベントでなのだろう、いろんなところにライトがセットされていて、暗くなってからきたら幻想的な感じになるのではないかと思われた。まだ明るかったので良くは分からなかったが。帰りに現存している月見櫓を外から鑑賞し、ついでに後楽園に寄った。後楽園はすごい人だった。こちらは年配の日本人が95%だった。こちらもいろいろとライトがセッティングされていて、暗くなるときれいなのではないかと思われたが、10分ほどで出てきてしまった。(H28.5.27)
下津井城(C)
近世
山城
戦国大名宇喜多氏が築城、四国との航路の要港であったために小早川秀秋、岡山藩主池田氏も整備を重ねた。一国一城令で廃城。
山ぽんのホームページ
撫川城(C) 山ぽんのホームページ
しげもりけいたさんのページ
庭瀬城 しげもりけいたさんのページ
常山城(C) 戦国大名三村氏の有力武将上野氏の居城。
山ぽんのホームページ
乙子城 しもつさんのページ

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備中(Yahoo!岡山西部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

高梁城(備中松山城)
近世
山城

〈天守,二重櫓,三の平櫓東土塀〉
[松山藩]
1240年、備中の地頭秋庭重信が現在の城地の東北にある大松山に城を築いたのが始め。その後南北朝時代に、高橋氏が城域を大松山から小松山に広げ、壮大な山城とする。現在残る城跡は1680年台に五万石で入封した水谷勝宗が大改修したものである。その後板倉氏が7代125年在城。
(注)もともと備中松山城と言われてきたが、近年城郭研究家の申し合わせにより、近世城郭の呼称を可能な限り現市町村名で行うとのことにより、高梁城と呼ばれるものである。
高梁市
高梁市観光協会
ほんとに素晴らしい山城だった。ただ、いろいろと驚かされるお城でもあった。
まず、17:30頃に駐車場に着いたのだが、それより上に行くのは18:00以降、それまではバスが運行しているので車では行けないというのだ。では歩いていくとどれくらいかかるか聞くと50分くらい。しかも公開は16:30で終了しているときた。これはGWの特例で、いつもは15:30には終了するらしい。これは全く唖然としたという表現しかない。せっかく来たのだからと無理に頼んでバスの後を車で行かせてもらい、外見だけは見ることができた。といっても車で行けるのは途中までで、そこからは山道を歩かないといけない。10分くらい歩いたろうか、上でがさがさと木がゆれる音がする。何だろうと凝視してみるとなんと野猿である。で、もう少し歩いてみると出てくるは出てくるは。特に三の丸跡では20匹くらいの猿が食事をしている。本丸跡でも10匹くらいいただろうか、みんな草とか花とかをむしゃむしゃと。。。
城はというと、本当に素晴らしく、その連格式の天守と山城特有の山を削って造る曲輪の配置がなんとも言えなかった。生きているうちにもう一度来て、今度は天守に登ってみたいものである。ただ、今回の印象としてはやはり猿の印象が強すぎる。しかしまぁいろんな意味ですごい城だ。(H10.5.3)

前回の反省も込めて、今回は朝から出かけた。タクシーで行ったのだが、ふいご峠から徒歩で天守に向かう。最初は緩やかな山道なのだが、徐々に傾斜がきつくなってきて、15分ほど登ると大手門跡に辿り着く。そこからの石垣群が圧巻。何重にも張り巡らされた石垣が広範囲に残り、まさに圧倒される。しかも自然石をうまく活用して、その上に石垣を組み立てている。圧倒されながら三の丸、厩曲輪を通り、二の丸に到着。そうすると目の前に本丸がドーンと現れる。山城でこれだけの本丸を見ることができるのは本当に幸せである。
そして念願の天守入場。天守台の左側に小さな入口があり、そこから入ってから梯子のような階段を上って天守に入る。入口が小さいのは元々は櫓と天守を結ぶ廊下があって、その廊下と繋がっていたらしい。それでも建物の中に片面に石垣があり、そこから天守に登っていく形態が何とも言えない。天守に入るとかなり広い空間が広がり、一段高いところに「装束の間」という別部屋がある。城主が寝泊まりする場所だったらしいが、そういう空間があるのも良い。天守正面の破風の部分である。また、木造天守に「囲炉裏」があるのも驚いた。そして階段を上ると…あれ?そこが一番上だった。外見から何となく三階と思いこんでいたが、二層二階建てだった。しかし言うまでもないことではあるが、現存天守はその全体的な雰囲気が持つ重みが全く違う。この城はそれが山頂にあるのである。感激もひとしおであった。
天守から外に出てみると少し雨がぱらついていたが、気にせず二重櫓の方に向かう。天守も二重櫓もそうだが、自然石をうまく活用して、その上に石垣を組み立てている。これまでほぼ見たことがない気がした。山城ならではなのかもしれない。あと非常に驚いたのが人の多さである。これだけの城なのだから、という思いもあるが、城めぐりをしていると観光客がほとんどいないことに慣れてしまって、逆に人が多いと少し引いてしまうようなところがある。いやいや、これだけ素晴らしい城にこれだけの人がいるというのは、城の良さを理解できる人が増えるかもしれないわけで、喜ぶべきことに違いない。一過性のものでないことを切に祈るばかりである。(H28.5.28)

高松城(D)
戦国
平城
おいでんSAY岡山のページ
山ぽんのホームページ
「晴れの国からぼんジュール」のページ
徳田豊さんのページ
鬼ノ城 しげもりけいたさんのページ
高越城 井原市のページ
足守陣屋 [足守藩]
山ぽんのホームページ

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備後(Yahoo!広島東部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

福山城
近世
平山城
〈伏見櫓,筋鉄御門〉
[福山藩]
1619年水野勝成が備後10万石の領主となり、築城。現在の天守閣は昭和41年に外観復元されたもので、中は博物館。
ローズアーケードのページ
魔法諸島の旅行ガイドページ
新幹線で福山駅を通ると天守がちらっと見えるので、いつか来てみたかった城だったが、正直少し幻滅した。立派な石垣が広範囲に残り、伏見櫓や筋鉄御門など現存遺構もあるのだが、何か物足りない。考えられるのは、まずお堀が全くないこと。かなりの市街地になっているため、埋められてしまったのだろう。それから、城内にかなりの電線が張られていること。やはりお城は俗世間のものとは隔離されていて欲しいものである。そしてやはりあの天守。建てられたのが割と古いからだろう、こもる熱気の中を汗をかきかき階段を登っていかないといけない。誤解を恐れずに言うと、どうせ木で作らないならエレベーターくらいつけて欲しいものである。(H15.9.7)
三原城(C)
戦国
海城
神辺城
戦国
山城
今高野山城
戦国
山城
三の丸跡に中世の山城風の展望台が建つ。
嫁のお父さんのお兄さんの家に遊びに来た帰りに少し寄ったもの。結構な山を延々登るのだが、久々の山城攻略で、大汗をかいてしまった。遺構としてはほとんど残っていないが、少なくとも山道の散策としては楽しかった。しかし天守などなかった時代の城跡に、天守的建造物を建ててしまうというのは、やはり何と言うか・・・(H15.9.6)

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安芸(Yahoo!広島西部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

広島城
近世
平城
[広島藩]
1589年、時の戦国大名毛利輝元が山間の吉田郡山城が領国支配には不適であると判断し、築いたのが広島城である。最終的に城が整ったのは1599年で、豊臣大名らしく聚楽第を参考にした作りであった。しかし、輝元が西軍の総大将となった関ヶ原の合戦に敗れて完成の翌年の1600年に毛利氏は萩に移ることになる。その後、福島正則が五十万石の太守として入城し、更に整備した。しかしその整備が無断城郭修理に当たるとして1619年に突然改易され、代わって紀州浅野氏が入り明治維新を迎える。戦略上非常に重要な位置を占めていたらしく、明治維新では広島鎮台となり、日清戦争では大本営が置かれている。そして太平洋戦争においてはまさにここが原爆の標的になった。
最盛時の広島城は天守二基に二重櫓三十三基、単層櫓三十二基長櫓四基、多聞櫓四基、櫓門十二棟を数える大城郭であったという。現在見られる天守閣はもちろん復興天守であり、その他の建物も復興計画が進められている。
広島県のページ
広島修道大学のページ
お城の旅日記のページ
思った以上に敷地面積が広く、立派な城跡だった。堀はよく保存されていたが、大手門など復元されているもの以外は、アスファルトが敷かれ、歴史的遺構という感じは薄い。とはいえ、原爆投下によって堀すらぼろぼろだったであろうことを考えるとよくぞここまで復元したものだと思う。大手門から入って本丸の最も奥にある天守まで歩くと、その途中には日清戦争で大本営が置かれた建物跡などがあり、様々に入り組んだ歴史を考えさせられる。天守は、入り口は城壁と木でできており、完全復元か?と非常に期待して中に入ると、コンクリート作りの教室仕様。うーん、残念。4階部分では「日本の城郭展」がたまたま実施されていて、これは結構面白かった。それ以外の展示物はご多分に漏れず。(H12.2.27)
吉田郡山城(D)
戦国
山城
安芸高田市観光ナビ
安芸高田市歴史民俗資料館
猿掛城
戦国
山城
お城の旅日記のページ
鈴尾城
戦国
山城
お城の旅日記のページ
岩山城 呉市郷原町のページ
桜尾城 厳島神領地を支配するための本拠地
「いにしえのロマンの郷はつかいち」のページ
お城の旅日記のページ
亀居城 関が原の戦後処理で対毛利外交を担当していた福島正則が、芸備ニ国という毛利氏の旧領で、かつ毛利領に隣接した国の太守となったのは、毛利封じ込め政策の主役をまかされた意味合いが強い。吉川による岩国築城に対抗するため、慶長8年(1603)福島正則は領域西端の小方(おがた)の地に支城としてこの城を築城した。
慶長16年(1611)に家康の意向により破却。
お城の旅日記のページ

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周防(Yahoo!山口東部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

岩国城
近世
平山城(200m)
[岩国藩]
関が原の合戦後、六万石の領地を与えられた吉川広家(元春の子)が築城したもので、1608年に完成するが、1615年の一国一城令によって破却される。以後吉川家は麓の館『土居』で生活をし、政治を行った。これは今の吉香公園であり、城山を背に三面に堀をめぐらした堅固なものであった。現在の天守閣は昭和37年に復興されたもので、麓からの景観上、旧本丸南隅に建てられている。
(ここから千葉在住の本田さんのメールより)現在の天主閣(要害)は、観光用のにせもので、本当に天主があったところは、石垣を発掘して野面積みのみ復元してあります。 その辺りのいきさつは省略しますが、復元された石垣、城山のふもとにある吉川家墓所及び吉川博物館(吉川家伝来の家宝の展示)は、一見の価値があります。
西村さんのページ
土日で広島に来たので、宮島観光ついでにふらっと寄る。JR岩国駅を降りてからさらにバスで、錦帯橋まで来て、そこからロープウェーで山に上れるようになっている。ともかくその錦帯橋がいい。アーチが5つあって、それが非常に優雅。そしてそれと、山上に見える岩国城が妙にマッチしている。ロープウェーは午後5時が最終で、ぎりぎりに行ったために下りは使えず、足で下りることとなったものの、それ以上にその時間だと天守にも入れなかった。まぁ感想としては中の下。まず、天守に全く歴史的関連性がないこと、さらに建っている位置が全く違う。なんと構内の地図には、「天守閣」「天守閣跡」という意味不明な書き方が。別にその書き方はいいが、ちゃんと説明すべきだなぁ。さらに、大手門。とにかくちゃちい。簡単な木で作ったものを堂々と大手門と書いている。うーん、書き出すとどんどん苦言が、、、とにかく、どうも整備されすぎていて昔の面影をしのびにくい。公園として整備するのはいいことだが、ちょっとやりすぎか。あ、それと、ロープウェーの降り口から天守までの道が二通りあり、一つは山道、一つはアスファルトで、看板ではアスファルトを勧めている。が、なんと山道の方を歩かないと最も趣のある石垣を見ることはできない。安全性を考慮するのもいいが、やはりどうも説明不足の感が否めない。(H12.2.26)
山口城(C)
近代
平城
[山口藩]
関が原で西軍の大将となった毛利家が領地を没収され、輝元の嫡子「秀就」に防長二国を与えるという厳しい処置となったことは有名であるが、その時にここへの築城願いを幕府に提出するも認められず、萩を本拠とした。ところが、幕末を迎え、二州の中心に藩庁を移すことが必要となり、幕府の意向を聞かずに築城を敢行した。1864年に完成、明治維新後は山口藩議事館と改称され、さらに山口県庁となった。1911年に県庁舎が改築されたときにすべての建物を解体、表門が新庁舎横に移築保存されるだけになった。
沼城(D)
戦国
山城
「毛利元就・防長最大の激戦地」
若山城(C)
戦国
山城
陶氏の居城。あの陶晴賢が大内義隆を倒し、防長の主権を握ったときに、兵を上げたのもこの城である。1555年に元就と戦って厳島に敗死、翌年には息子の長房が城を逃れて自刃、毛利家の攻撃で落城。
「毛利元就・防長最大の激戦地」

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長門(Yahoo!山口西部)

城名
時代・形態

由来・遺構・エピソードなど

萩城
近世
平山城
[萩藩]
関が原の合戦で敗れて防長二カ国三十六万石に減封された毛利輝元に許可された新居城の地は山口ではなく、片田舎の萩であった。そしてそこでは毛利家の威信をかけた大普請が行われることになる。萩の指月山を詰めの城として実戦用の城とすると共に、麓にはその城とは別個に政庁・藩邸を備えた平城を構えたのである。詰めの城とした山城は海抜143mの山頂に五基の二重櫓と櫓門を上げ、中腹には山中櫓を上げた。そして麓の城には五層の複合式天守と壮大な殿舎を営み、二の丸には十基の櫓を設け、三の丸には武家屋敷を置いた。
萩城の天守は明治新政府の廃城令によって破却されたが、五重五層の大壁づくりで最上階を古式望楼としていた。現在は曲輪跡が残るだけであるが、九州の中津城の模擬天守閣は萩城の復元とされている。
萩市観光協会
戦国探究
来てみて初めて分かることがある。そもそも萩は三角州になっていて、三角州全体が城下町を形成している。その三角州の最も海側に指月山があり、それを詰めの城にして、麓に平城がある。つまり、海を背後に城が建ち、川を広い意味での堀にして堅固な城郭を形成している。毛利家の威信をかけた城というのも頷けるというものである。
城跡としては、整備されているとはいいがたいが、それゆえにしなびたというか、古い雰囲気が色濃く残る風情ある城跡となっている。時間の都合で指月山に登ることはできなかったが、山頂からの眺めはまた格別ではないかと思われた。さらに、日本海に面していて、「潮入門」という門があり、それを抜けると海岸になっている。なかなかに見どころの多い城であることは間違いない。ただ、ちょうど大河ドラマをやっている最中だからということなのか、入場料を取られたのは少し不可解ではあった。(H27.7.2)
勝山城(C)
戦国
平山城
勝山城とは厳密には2つあり、一つ目は大内義長が拠って落城した中世山城であり、二つ目は幕末の下関攘夷戦のために急造された近世城郭で、勝山御殿と呼ばれる。現在勝山御殿跡には広大な石垣が残る。
串崎城 [長府藩]


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