![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
水戸城(C・・・移築門あり) 日本百名城:14 |
![]() 現在、遺構としては水戸第一高校に「薬医門」が復元されて現存、三の丸に「弘道館」の一部が残るほか、2020年に大手門、2021年に二の丸角櫓が復元されている。 *水戸観光コンベンション協会 *城址うぉっち頁
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笠間城(C・・・移築櫓あり) 近世 山城(182m) 続日本百名城:112 |
![]() *笠間市(公式) ![]() ![]() 帰りに、櫓が現存すると言う真浄寺に寄ってみた。七面堂と呼ばれる建物だったが、入口正面に建っていて、不思議な感じがした。県内唯一の現存櫓だと言う。全国を見てもとにかく現存する城郭建造物は少ない。どんな形であれ、少しでも長く、こうした遺構が残っていて欲しい、切に願うばかりである。(H16.11.6)
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逆井城 戦国 水城 |
![]() 昭和58年度より始まった城址整備計画として、日本では初めての戦国城郭建築の模擬天守が作られ、その他、礎石を基に復元された櫓門・橋や、土塁・空掘りなど、中世城郭の遺構が良く残っている。別名:飯沼城 ![]() ![]() |
土浦城 続日本百名城:113 |
![]() ![]() ちなみに、堀の周りをうろうろしながら写真を撮っていたら、何とデジカメの電池が切れてしまった!情けない。まぁそれほどいい城だったという事である。(H16.11.6)
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小田城 南北朝 平城 |
![]() 戦国期には、北条氏の勢力拡大のもと、小田氏は去就が定まらず、上杉謙信や佐竹義重、太田三楽斎らに攻められ、三度落城、最終的には佐竹氏に完全降伏することとなった。関ケ原の合戦後、佐竹氏は秋田に移封となり、廃城となった。 ![]() |
豊田城 南北朝 水城 |
![]() ![]() |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
千葉城 中世 平山城(30m) |
![]() *千葉市のページ *はたぼうさんの日本名城案内 ![]() |
古河城(E・・・移築城門あり) | 室町時代、中央政府としての幕府が京都に置かれたため、鎌倉を初め戦略上重要な地域である関東地域を統括するため、鎌倉府が置かれた。室町幕府の将軍は公方と呼ばれたが、第二の幕府としての鎌倉府のトップは鎌倉公方と呼ばれた。初代鎌倉公方足利基氏は鎌倉府を鎌倉に置いたが、1455年足利成氏は御在所を当地に移し、以来古河公方と呼ばれる。その後後北条氏が下野、常陸進攻の前線基地とし、その後も重要な戦略上の拠点として整備が繰り返された。その堅固さは秀吉による小田原攻めで破却を命じられる程であった。近世になってからは小笠原秀政・松平康長・奥平信之・永井直勝・土井利勝が入城、この代に御三階が上がり、関東では江戸城に次ぐ規模の大城郭となった。現在、城跡は明治末から昭和初期にかけての渡良瀬川大改修により川の底に沈められてしまい、往時を偲ぶものは市内の福法寺に移築されたと伝えられる城門だけである。 *募巣豚私立博物館 |
結城城(D) | 結城合戦において室町幕府と管領上杉氏に対抗した北関東の豪族が立てこもった城であり、主戦場となった。戦国期になって有名な法度を定めた結城氏が入り、小田原平定の後に家康の次男を迎え、結城秀康を城主とした。関ヶ原の合戦後に福井に転封、幕府の直轄地となった。遺構は特にないが、城下を巡る御朱印堀がよく保存される。 *栃木の城+α |
佐倉城(C) 日本百名城:20 |
![]() *佐倉市のページ ![]() さて、城跡であるが、建物は何も残ってはいないが、空掘が非常に良く残り、十分に昔を偲ぶことが出来る。感じたのは、石垣が城ではないということ。「天守閣=城」という人は周りに多く、常に「そうではない!」と主張してきた私だが、生まれも育ちも西日本ということがあったのかもしれない「石垣=城」という認識は思った以上に深かったようだ。最初はあまり遺構が残ってないのかなぁ?と思ってたら、土塁、石垣、さらに馬出しまで、それだけでも縄張りが想像できそうなくらいである。こういう城跡こそ、将来に残していきたい。是非とも訪れていただきたい城である。 城と駅の間には、武者屋敷があり、ちょっと寄ってみた。土塁の上に生垣があるのが佐倉地方独特のものだそう。防御目的もさりながら、登城時の馬に乗った武将から家の中を見えなくする役割もあったのだとか。房総では最大の城下町、今回は思ったようにブラブラできなかったが、一日ブラブラするのもいいだろうと思う。(H13.4.15)
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臼井城(D) | ![]() 現在、本丸、二の丸を中心として、空掘・土塁等がよく残る城址公園となっている。 ![]() |
高岡陣屋(E) | ![]() *成田市のページ ![]() |
関宿城 中世 平山城 |
![]() *千葉県 ![]() 少し離れたところに実際に本丸があったところであろう、石碑が建っている。一応木で囲まれた郭のようになっているが、特に遺構はなさそうであった。残念。(H15.2.23) |
小金城(C) 戦国 平山城 |
![]() ![]() |
前ヶ崎城(C) 戦国 平山城 |
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国府台城(C) 戦国 平山城(30m) |
![]() *千葉市の遺跡を歩く会 ![]() |
大野城(E) 戦国 平山城 |
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松戸城(E) 戦国 平山城 |
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相模台城(E) 戦国 平山城 |
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根木内城(C) 戦国 平山城 |
![]() ![]() 駐車場から跡地に入っていくと、まず湿地帯があるのだが、それを越えていくと、結構大規模な土塁が出現、そのまま歩いていくと綺麗な堀切があって、その奥には何と土橋!中の看板を見てみると、国道6号線によって分断されていて、本丸と思われる曲輪は6号線の向こう側で、既に宅地化されているようだった。それでも土橋の奥には曲輪の一部と思われる広場がある。戦国時代の城の特徴が良く残る素晴らしい城跡。間違いなく、わざわざ出かけていく価値のある城跡だと思う。 ちなみに、季節外れの暑さで、腕と足を蚊に刺されまくった・・・(R1.10.5) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
久留里城 戦国 丘城 |
![]() ![]() 麓の駐車場に車を停め、天守までの道はどうも二つあるらしく、コンクリートの道と、ハイキングコースのような山道。当然山道を登ることにしたのだが、やはり暑くて暑くて。とはいえよく整備された山道で、歩きやすいし、さわやか系の森だったのもあって、気持ちよく山頂に。約一キロくらいか。天守はというと、ありがちなというか、天守台は古そうでいい感じなのに、その上に綺麗な模擬天守が乗っている。中に入ると、現存12城の写真があって、特にその他の展示はなし。てっぺんからみると、綺麗な山の景色。 帰りはコンクリートの道を降りる事にしたのだが、途中で展示館がある。無料というので入り、一通り見るものの、大したものはない。とはいえ、ハイキング的感覚で来れる良いお城ではなかろうかと思う。(H12.7.22) ![]() ちなみに、模擬天守のある横に本来の天守台があるのだが、そちらは入ることも見ることもできないのはどうも納得いかない。貴重な遺構なので破損を防ぐ意味なのだとは思うが、誰にも見られず、誰の記憶にも残らない。今後何とかしてほしいものである。(H23.4.30) |
大多喜城 近世 山城 続日本百名城:122 |
![]() *大多喜城(県立中央博物館大多喜城分館) ![]() 夏休みで部活の練習なんかをしている中、堂々と校門から車を乗り付ける。小さい門だったが、これは何ともいい感じで、そこからちらりと見える天守もまたいい感じだった。 帰りには、十万石最中(有名らしい。老舗的な小さい店で買った。)を親にお土産に買って帰る。一つだけ二人で食べてみたのだが、これが美味い。すごい大量のあんこで、これがまた何とも言えない。行かれたら是非とも食べていただきたい(H12.7.22) ![]() 時間は経ったが、感想はほぼ同じ。やはりコンクリートの復元天守ではテンションが上がらない。復元と言っても推定復元である。天守非実在説もあるくらいだから、難しいところである。ただ、天守台の石垣はかなり本物っぽく仕上げている。打ち込みハギの石垣で、矢穴の跡がついているのだ。石はそうやって切り出したのかもしれない。 中は…言うまでもないという感じか。千葉県立博物館の分館の一つなのだそうだから、やむを得ないのかもしれない。それでも続日本100名城のスタンプが入場料を払ってからしか押せないのはいかがなものか。200円をケチっているわけではもちろんないのだが…(R3.9.19) |
一宮城(E) 中世 平山城 |
![]() ![]() 一応、城山公園となっているが、見るべきものはほとんどなかった。入り口に大手門らしきものが建てられているが、恐らくは模擬。中に入ると武道場(「振武館」というらしい)があり、その奥に少し開けた場所があって、そこからは一宮の街並みが一望できる。 城のすぐ近くには一ノ宮の地名の由来となった「玉前神社」、3キロほど行けば海岸があり、海鮮料理がおいしい店もたくさんある。町としては非常に楽しい町であった。(H23.10.9) |
鷺沼城 中世 平山城 |
平安時代に築かれたとされるが、不明点が多い。![]() |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
館山城 近世 丘城 |
![]() ![]() *千葉県のページ |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
忍城(おしじょう) 続日本百名城:118 |
![]() 現在、遺構としては石垣・土塁・水堀といったものが残り、昭和63年には天守が復元された。 *埋もれた古城 ![]() その後水城公園をブラブラしていたのだが、広大な沼に各曲輪を島のように配置していた当時を想像すると、光秀ではないが、水攻めにでもしないと落ちないような気がしてくるのは気のせいだろうか・・・(H15.10.5) ![]() |
松山城(D) 室町 平山城 |
![]() これだけ攻防の激しい城も珍しく、それだけ重要な位置にあったということであろう。遺構はほとんど残っておらず、ごく一部土塁跡らしきものが見られるのみ。 ![]() ![]() ![]() |
杉山城(C) 室町 平山城 続日本百名城:119 |
![]() 城跡は中世城郭としてはこれ以上ないレベルで遺構が残存している。本郭を中心として北・東・南の三方向にそれぞれ二の郭、三の郭を梯段状に連ね、さらに外郭、馬出郭、井戸郭が配置されており、複雑に入り組んだ帯郭や空堀が非常に良好に保存されている。 *杉山城公式 ![]() 駐車場に車を停め、中学校の敷地の中を城跡に向かって歩くと、大手口に到着する。ここからの眺めがまず素晴らしい。段違いになっている各郭を背に、ここしかない位置に大手口が配置されている。大手口を入ると外郭があるのだが、そこから南三の郭には一旦空堀に下りないと行くことができない。かつては木橋がかかっていたようなのだが、もちろん今はないからである。南三の郭から南二の郭に行く道は食い違い虎口になっていることが良く分かる。さらに南二の郭から、井戸郭に寄り道して、井戸を見る。廃城になったときに石で蓋をされたということだが、その石の周りに水溜りができている。南二の郭に戻り、本郭に向かうのだが、直接は行けず、一旦帯郭に下りてからでないと行けないようになっている。そして本郭、段々の一番上にあるので、眺めも素晴らしいのだが、それ以上に下に見える郭の数々、土塁と空堀、が芸術的で何とも言えない。 歴史の中でほぼ登場することのない城なのに、ここまでの高いレベルで遺構が残存しているのは奇跡に近い。また、この真夏に草がボウボウになることなく、よく整えられているのは役所の方々、中学校の生徒たちが維持活動をしていただいているお陰だと思う。数々の関東の土の城を訪問したが、感動に近い感情を覚えたのはこの城くらいではないか。多少無理をしても訪問していただきたい城である。(R3.8.11) |
菅谷館(C) 室町 平山城 続日本百名城:120 |
鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が居住した所と伝えられる。戦国時代には須賀谷原の合戦の後、山内上杉氏によって再興された「須賀谷旧城」と考えられている。 *埼玉県立嵐山史跡の博物館 ![]() |
鉢形城(C) 日本百名城:18 |
![]() 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁に築かれていて、天然の要害となっており、その遺構が広範囲に残っている。鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が建てられ、二の曲輪・三の曲輪には発掘調査の成果を元に戦国時代の石積みの土塁・門・池などを復元している。 *鉢形城歴史館 ![]() 続いて二の曲輪・三の曲輪に。こちらはやり過ぎなほど整備されている。どうもこちらは発掘調査が終わったため、その調査結果を元に整備したようだ。戦国時代の城郭は雰囲気が掴みづらいところがあって、石積みの土塁など、江戸時代の城では見ることのないものも見れてありがたい半面、綺麗過ぎてどうもピンとこない。時間が経てば、味も出てくるのだとは思うが…。 二の曲輪・三の曲輪の向かいには伝逸見曲輪などの曲輪がいくつも広がっており、本当に広範囲に城跡がある。もちろん、その向こう側には深沢川があって、川と川に挟まれた三角州のようなところを丸ごと城にしてしまっている。その手の城は何度か行ったことはあるのだが、これだけ大規模な城で、ここまで保存されているのは非常に珍しいのではないかと思う。惜しむらくはあまりにも広大なためにそれが全体として俯瞰して見ることができないこと。これだけの跡地を全体として整備するのは莫大な費用がかかることが容易に想像できるので、無理な注文であることは間違いない。今はただ、都市開発の波に飲み込まれることの無いよう、切に祈りたい。(R1.8.21) |
川越城 日本百名城:19 |
![]() *川越市教育委員会 *kみむさんのページ ![]() ![]() それはそうと、本丸御殿、素晴らしかった。見ようによっては普通の広くて古い家なんだけど、そこは城郭建築、大広間の襖絵とか、廊下に沿った細長い控の間とか、お城たるべき要素が多くて感動。1990年に上福岡市に移築されていたという家老詰め所が戻されたとかで、そちらも合わせて素晴らしかった。やっぱり現存しているものは重みが違うなー。かつては今残っているものの5〜10倍あったというから、想像するだけで楽しくなってくる。是非行っていただきたい遺構である。(H15.10.5) ![]() |
江戸城 近世 平山城 日本百名城:14 |
![]() 江戸時代の政治・経済の中心となった名城。1605年から30年以上かけて築かれた世界最大の木造建築。当時五層六階で、38×34b、高さ61bであったが、1657年の明暦大火で全焼し、以後再建されることはなかった。その他にも三重櫓が七基、二重櫓が十二基、単層櫓が五十五基、城門は127基あったという。現在残っている櫓は関東大震災で大破したものをコンクリートで復興したものである。城門はいくつか現存し、3つは国の重要文化財に指定されている。 *宮内庁 *小島さんのページ ![]() |
八王子城(C) 戦国 山城(460m) 日本百名城:22 |
![]() *中央電子(株) *高尾通信
石段、土の坂、木の根っこ、いろんな種類の山道が行く手を阻む。すれ違う人たちは結構登山用の格好をしていたりして、なかなか本格的である。しかしこの暑い日に、山城を攻めようなんてもの好きが我々以外にも結構いるとは。登っていると、とにかく排水路によく出くわす。山城にはよく出会う排水路だが、おそらくは10個以上あっただろうか。さすがは大規模な山城である。 |
滝山城 戦国 山城(80m) 続日本百名城:123 |
1521年に武蔵国守護代の大石定重が築城、北条氏照が落城させ、北関東運営の居点とした。多摩川と秋川の合流点の自然を巧みに利用した城は、難攻不落であり、1569年武田信玄の軍勢2万人を2千の兵で守り抜いたと言われる。しかしこの戦闘の後、氏照はより堅牢な八王子に築城を開始、居を移した。 *八王子市 *中央電子(株) *高尾通信 ![]() ![]() いやぁ、この辺、八王子城もそうだし、素晴らしい城が多く残っている。とはいうものの、八王子城で疲れきった身体には少々きつかった。(R2.8.9) |
片倉城 | ![]() *八王子市 *高尾通信 ![]() |
岩槻城 室町 平城 |
![]() 現在の城跡は、城跡の中心部分を県道が横切り、遺構はかなり限定される。それでも城址公園には大手門が移築され、土塁上には時の鐘が残る。 *川口さんのページ ![]() ![]() ただこちらは本丸ではなく、本丸は県道の下に消えてしまったという。残念。本丸のあったところから県道を大手口のほうに戻り、すこし横道を入ると時の鐘が民家の隙間に現存している。かなり注意深く探さないと見つからないかもしれない。ここまでが城跡、ここからは城下町、という区切りらしく、想像力を働かせると少しは往時を偲ぶことができるのではないだろうか。(H15.10.5) |
小机城 中世 丘城 続日本百名城:125 |
![]() ![]() ![]() 階段を登ってまず正面に現れるのが巨大な空堀。その空堀を右手に行くと二ノ丸広場、左手に行くと本丸広場がある。それぞれの曲輪が本丸と二の丸として使われていたかどうかは定かではないらしいが、二つの曲輪を繋ぐ構造になっている。その二つの曲輪の周りにある土塁と空堀が本当によく残っている。市民の森と言っても、完全に城跡であり、公園らしい何かは特に無い。城巡りをしている人間からしたら素晴らしいことだが、一般市民が公園としては使えるかはかなり疑問。ただ、二ノ丸の奥で管楽器を練習している人がいた。あまり人が来ないからじっくり練習できるのだろうか。結論としては中世の城の雰囲気が良く残る素晴らしい城跡であり、この雰囲気を構成にまで伝えていけるよう、是非とも保存していってもらいたいものだ。(R1.10.27) |
茅ヶ崎城 中世 丘城 |
14世紀末から15世紀前半に築城され、上杉・後北条氏が関与していたと思われるが、不明点が多い。![]() |
石神井城 戦国 平山城 |
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世田谷城 戦国 平山城 |
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渋谷城 平安 平山城 |
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葛西城 戦国 平城 |
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品川台場 近世 台場 続日本百名城:124 |
![]() ![]() 看板を見て驚いたのは、これを計画・設計したのが江川英龍だということ。去年のGW、韮山に行った時に反射炉を見学したのだが、それを作ったのが江川英龍であったのを覚えていたのだ。こういう繋がりは興味を倍増させる。 ちなみに、続日本百名城のスタンプはマリンハウス1階に設置されているのだが、これが恐ろしく乾かない。インクのせいなのか、紙質のせいなのか、私が強く押しすぎたせいなのか、原因は不明だし、もしかしたらすべて原因なのかもしれないが、いずれにしても半日触らないでようやく乾いた。(R1.11.2) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
小田原城 戦国 平山城 日本百名城:23 |
![]() *公式 ![]() ![]() 常盤木門に向かう途中、植栽や舗装の仕方がどうにもしっくりこない。明らかに城郭としての整備ではない。常盤木門は重厚ないい雰囲気を保っているが、門をくぐると本丸が。一角に猿の檻があるものの、20数年前に来た時と比べると、随分動物園感は少なくなっている。そして天守へ。非常にきれいな博物館的な雰囲気になっている。どうも「平成の大改修」として、平成27〜28年にかけて整備がなされたらしい。小田原城の成り立ちや歴史を詳しく紹介しており、好感が持てる内容ではあった。ただもちろん博物館として、の話であり、当たり前だが、城郭建築ではない。御多分に漏れず、さっさと出てきてしまった。 そして、帰りは予定通り銅門から馬出門に至るルートへ。銅門に来たら、特別公開中と書かれている。勇んで入ろうと思ったら、15:10…15時までの公開時間が終わったところだった。内部を見れなかったのは残念だったが、この銅門から住吉橋、馬出門に至るルート、本当に素晴らしい。平成9年に復元されたということで、前回来た時には復元されていなかったということらしい。城郭を城郭として整備しているので、その他のエリアとは全く違う。この城で最も来るべきエリアだと思う。が・・・天守にあれほどいた観光客がここには全然いない。小田原市さん、次は二ノ丸の整備、お願いします。(R1.8.25) |
石垣山城(C) 近世 山城(261m) |
1590年の小田原合戦に際し、秀吉は水陸二十万の大軍で小田原城を包囲、当初は湯本早雲寺に本陣を置いた。四月に入り小田原城西方にそびえる笠懸山に築城を開始。突貫工事により築城は100日足らずで終了し、その日の夜それまで城の前面を覆っていた樹木をいっせいに取り除いた。小田原城では一夜のうちに現れた巨城に恐れおののき、落城を早めたと言われている。それで「一夜城」の別名を持つ。今日もところどころに石垣の跡が見られ、特に井戸の曲輪は圧巻。 *小田原市 ![]() ![]() さて、城跡に向かうと、いきなり大規模な石垣が目に入ってくる。ただ、下には大型の石が転がっている。よく見ると通路を半分以上塞ぐような形になっている。石垣がここまでに規模で崩れているのに、修復しようとする意思が全く見えない。崩れた状態こそが自然な状態だから、そのままにしておこうということなのだろうか。その考え方も理解はできるが、正確に復旧できるものは復旧してほしい。かつての姿はできる限り想像できる方が望ましいと思う。さらに奥に歩いていくと、二ノ丸・本丸と続くのだが、本当に陣城かと思うほど、しっかりした石垣が続いている。そして本丸の展望台からは、小田原城天守がきれいに見える。ここで秀吉と家康が関東経営の話をしていたのかも、とか、ここで秀吉は正宗と会ったのだろうか、とか、想像は膨らむばかり。すべての歴史ファンに是非訪問してもらいたい城である。(R1.8.25) |
玉縄城(C) | *埋もれた古城 |
大庭城 | *藤沢市 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
韮山城(C) | ![]() *伊豆の国市 ![]() |
長浜城(C) | ![]() *沼津市 ![]() ちなみに、周辺はラブライブの聖地なんだそうで、各お店がラブライブの装飾をしていて、ラブライブのイラストが描かれた車が停まっていて、ファンの人と思しき人がたくさんいた。そのせいか、周辺の道路が混雑していて、なかなか辿り着けなかった。(R1.5.3) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
甲府城(C) 日本百名城:25 |
![]() *山梨放送 *kみむさんのページ ![]() その中をかき分けかき分け、階段を登り、本丸天守台跡へ。想像していたよりかなり広く、本格的な城であった。天守台前の芝生では、娘がはしゃぎまわって遊んでいた。やはり城跡は憩いの場としての在り方が最もいいと思う。その意味ではとても好感の持てる城跡であった。 あと、いろいろと議論はあるのだと思うが、天守台跡に、ある程度歴史検証のできた天守を復元して欲しいものだ。建っていたかどうか分からないものに歴史検証もあったものではないのかもしれないが。難しいなぁ。(H14.10.13) ![]() |
躑躅ケ崎館(C) 日本百名城:24 |
![]() ![]() ![]() |
要害山城(C) 続日本100名城:128 |
![]() ![]() ![]() |
新府城(C) 続日本100名城:127 |
1581年、武田勝頼が領国防衛のため、新たに本拠地として築いた城。1582年には信長の侵攻を受けて落城した。![]() |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
駿府城 日本百名城:41 |
![]() *駿府城公園 ![]() ![]() さて、二の丸から本丸へ向かう。といっても内堀はほとんど埋められているためどこから本丸かは良く分からないのだが、とにかく奥に向かう。すると、天守台があったところが発掘調査現場を見学することができる。とにかく広大な敷地に今川家屋敷跡の遺構、天正期の石垣、慶長期の石垣と時代の異なる遺構を見ることができ、家康が天下普請で造ったという慶長期の天守台は日本最大規模なのだという。そこに見えている石垣はほんの一部であり、その上にその何倍もの石垣があったはずで、その上に巨大な天守が建っていたはずである。発掘調査現場を観光地にしているのはほとんどないと思う。私は初めてだったが、スゴイいいと思う。過去の姿を妄想できる人にはたまらないのではないかと思う。(R6.5.4) |
山中城(C) 日本百名城:40 |
![]() 昭和48年から行った発掘調査と復元整備は、戦国時代の山城としては先駆的な整備事例で、現在は400年前の遺構がそのまま復元されて公園として整備されている。堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、土橋・木橋の配置、など箱根山の自然の地形を巧みに取り入れた山城の様子がよく分かる。1934年に国の史跡に指定。 *三島市 ![]() 「堀がまっすぐ平坦に整備されている」のは、在りし日の状態を再現したという意味では望ましいのかもしれないが、何が残っていて何が手を加えたのか分からない。これは我ながら高望みし過ぎだと思う。想像で作ったりしていないことは信じるしかない。 「歩道と堀の間に植物が植えられている」のは、不要だと思う。もちろん鉄製の柵などを作られるよりはよっぽどいいが、実際にはあるはずのないものであり、動物園じゃないのだから、柵を作る必要はないのではないか。 「堀切につつじなどが植えられている」のも、不要だと思う。攻められた時に登りづらくするためものなのに、その斜面に植物が植えられていたら、登る時の助けになってしまう。当たり前だが実際にあったわけではない。 とは書いてきたが、まとめると「非常にいい城跡公園」だと思う。堀が整備され過ぎているのは、一方、放置されたら保存されないリスクがあるものであり、整備されるに越したことはない。歩道や堀に植物が植えられているのも、公園として必要なものに絞られていて、むしろ好感が持てるレベルになっている。とても歩きやすい城跡だったし、堀に花が咲き乱れていて非常にきれいであり、富士山がその向こうに見えて、その景色は感動的なほどだった。我ながら真逆のことを言っているが、両方とも本心である。 さて、城跡としてだが、戦国時代の山城が、ここまで大規模に、また十分に在りし日を想像できる状態で残っているのは非常に素晴らしいと思う。北条氏の城の特徴である「障子堀・畝堀」が非常によく分かり、また途中まで土橋で途中から木橋になっているところなど、見所は限りなくある。さらにこの日は非常に良く晴れていて、富士山がきれいに見えた。これが借景になってさらにこの城を引き立てていた。まとまらなくなってきたが、とにかく是非とも訪問してほしい城であることは間違いない。(R1.5.3) |
興国寺城(C) 続日本百名城:145 |
1487年、今川氏の客将であった北条早雲が、今川家の家督争いを収めた功績により与えられた城。その後、韮山の堀越公方を攻めて伊豆に進出した。北条氏の勢力が確定した後は、今川・武田・北条による争奪戦が繰り返され、武田氏滅亡後は徳川の城となったが、1607年に廃城となった。 本丸と北曲輪の間には幅20メートル以上もある尾根を分断する大空堀が残る。天守台からは原の市街と駿河湾の景色を楽しむことができる。 *沼津市 ![]() |
足柄城(C) | 小田原合戦の際に北条氏忠が入り、惨敗した城。山中城と共に関八州の出入り口を固めた重要な城。 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
掛川城 日本百名城:42 |
![]() 戦国期には朝比奈氏があり、1590年に山内一豊が入城、改修に着手した。三層の天守をあげ、三重の塁濠を巡らしたが、関ヶ原合戦後に松井氏が入り、定綱の代に天守が再築された。現在全国でも珍しい二の丸御殿と太鼓櫓が現存する。 *掛川城公式 ![]() ![]() |
浜松城 | 1570年に徳川家康が新居として建築に着手、1581年頃に一応の完成を見た。家康は1586年頃まで在城し、駿府に移った。城主は西尾氏を経て、譜代大名が入った。 *浜松市 *浜松城公園 ![]() |
二俣城(C) | *日本の城(中部地方)のページ |
高天神城(C) | *大東市のページ |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
岡崎城 日本百名城:45 |
![]() *畑さんのページ *岡崎City情報のページ *IBMホームタウン・ホームページ ![]() 岡崎公園自体は非常に広く、その周りを川が流れていてそれが外堀なのは間違いなく、城郭自体も相当な規模だったのは容易に想像できるのだが、いかんせん曲輪が全く分からなくなってしまっているのが辛い。天守閣のある曲輪も神社やら何やら城と関係あるのかないのかわからないような建物に囲まれているため、本丸すらどこまでなのか判断しづらい。天守閣自体も確かに旧観に復元しているのだろうが、どちらかというと資料館としての位置づけの方が強そうな感じであった。で、肝心の展示物であるが、これは徳川三河武士の館というのが別にあり、それと合わせてそれなりに興味深い資料がそろっている。特に三河武士の館の方は周辺の小さな古城を紹介するコーナーがあったり、ビジュアル的に関ヶ原合戦を再現するコーナーがあったり、十分に楽しめるものになっていた。(H9.8.1) |
吉田城 | ![]() *どんどんタウンのページ *日本の城(中部地方)のページ ![]() |
長篠城(D) 日本百名城:46 |
![]() 城は1508年に菅沼氏が今川の武将として築いたのが始まりとされる。今川義元死後、菅沼氏は徳川に属したが、武田氏に攻められて一旦降参するが、信玄死後、家康が城を奪回し、奥平氏を城主に任命、その年に長篠合戦が行われた。翌年には新城城に本拠を移した。 *日本の城(中部地方)のページ ![]() 10分ほどすると史跡保存館の建物と小高い丘が見えてきた。まずは城跡に向かう。長篠城は豊川と宇連川が合流する地点にあり、まさに南側を天然の川を堀とした作りになっている。長篠合戦時には、長篠城は徳川方で、武田方は北側にいる訳で、堀とは逆側を強化しないといけなかったはず。もちろん一部ではあるが、土塁と空堀が良く残っており、その強化策の一端を見ることができる。本丸も非常に広くよく整備されていて、南の端には、長篠合戦時、向こう側のどの山に誰が陣取っていたかの解説が書かれている。武田の大軍に囲まれて、どんなに大変だったろうと思うが、その感覚を僅かでも追想することができる、いい城跡であった。一点、残念なのは、本丸と川の間に野牛郭跡があるのだが、本丸と野牛郭の境をJR飯田線の線路に横切られていること。ないものねだりをしても仕方ないし、雰囲気は十分に味わえるのだが、残念は残念である。 帰りに長篠城址史跡保存館に立ち寄った。江戸期の櫓のような建物に長篠合戦関連の資料展示がなされているが、正直さほどの見るべきものは見当たらなかった。また、戦国期の城跡に、江戸期風の建物を建てるのはやめてほしいものではある。 もし叶うものなら、今度はゆっくりと周りの山々を陣跡巡りハイキングなど、してみたいと本気で思った、そんな城跡であった。(H29.12.2) |
新城城 | 長篠の合戦後、奥平氏が長篠城から本拠を移した城。現在は新城中学校になっている。 *新城市 |
設楽城 鎌倉 山城 |
*愛知県 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
名古屋城 近世 平城 日本百名城:44 |
![]() 1610年に、家康の四子松平忠吉の跡を継ぎ、清洲城主となった九子義直の居城という名目で家康が着工。実は豊臣方の拠点である大阪の押えとして急造された城である。大坂の陣ではその役割を果たし、工事中であった外郭・惣構えは戦後中止され、未完成のままである。現存する西北隅櫓は清洲城小天守を移築したもので清洲櫓とも呼ばれる。 *公式ページ *愛知県の城と今月の名古屋城 ![]() あと、有名な清正石や家紋の入った石垣も確かにすごい。当時の徳川家がいかに強い勢力を誇っていたかということがよく分かる。あれだけ多くの大名が一も二もなく普請を手伝うのでは豊臣も勝てないわけだ。それから、現存する3つの櫓はどれも中に入れてもらえない。一度見てみたいものである。(H9.1.31) ![]() ![]() ![]() まずは今回の趣旨である本丸御殿に向かう。表二之門を抜けると、手前に御殿、その向こうに天守、という景色が現れる。感動である。本丸御殿建築は現存しているのは高知城、二条城、川越城あたりだが、高知城は規模が小さく、二条城は二ノ丸だし、川越城はその他の遺構がほとんどない。政令指定都市中心部にある大規模な城で本丸御殿建築を城郭の一部として見れるのはここだけだと思う。中に入ると、総檜造りの書院造の建物が精巧に復元されていて、部屋ごとに異なるテーマで描かれた床の間絵や襖絵は正確に復元されているそうで、まさに圧巻。引手金具や釘隠、天井も部屋ごとに正確に復元されているそうで、見るところは限りなくある。何といっても檜のいい匂いが充満し、1615年に建てられた当初はまさにこのような状態だったのではないかと思いながら、鑑賞できた。今のところ第二期工事まで終わっていて、来年には第三期工事が終わって、完成するそうなので、また是非再訪したいと思った。 折角来たのだからと天守にも登ってみたが、正直来なきゃよかったという感じだった。展示物はそれなりに充実してはいたが、やっぱりコンクリート天守の悲しさで、単なる展示館。さっきの御殿に比べて人の数が多かったが、やはり城といえば天守という意識が強いのだろう。天守を見たいなら少し足を延ばして犬山に行ってもらいたい。本当に。ただ、感動したのは、木造復元計画があること。5年後の完成を目指しているということだったので、大いに期待したいところである。(H29.12.2) |
犬山城 戦国 平山城 日本百名城:43 |
![]() 幻の現存最古の天守建築遺構であり、日本で唯一の個人所有の城である。天守建築時期は諸説あるが、下部は1537年に築城された金山城の天守閣を移築したもので、上部は江戸時代になってから増築されたというのが通説となっているが、まだはっきりとしてはいない。本丸を最北におき、眼下に木曽川が流れる典型的な「後堅固の城」である。 *犬山市のページ *犬山市観光情報のページ *日本の城(中部地方)のページ *犬山市マルチメディア協議会のページ *イサイズ「じゃらん」 ![]() |
清洲城 戦国 平城 |
![]() *日本の城(中部地方)のページ *はたぼうさんの日本名城案内 ![]() |
刈谷城(E) 戦国 平城 |
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大高城(D) | |
小牧山城 戦国 山城(85m) |
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田原城 戦国 丘城 |
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岩崎城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
桑名城(C) 近世 平城 |
鎌倉初期に桑名行綱がこの地に城塞を築いたのが初めだと言う。本格的に城郭を築いたのは1601年に10万石の大名として入封してきた本多忠勝だった。約十年をかけて櫓51,多聞46という巨大城郭を完成させた。その後松平氏が入り、最後の城主松平定貞(松平容保の弟)は戊辰戦争に際し新政府軍に反対し、函館に走ったため激しい砲撃を浴び、全焼の憂き目を見た。現在城跡は九華公園となり、堀や石垣が残っている。 *桑名市のページ *日本の城(中部地方)のページ ![]() |
神戸城(C・・・移築櫓・大手門あり) 近世 平城 |
![]() *鈴鹿サーキットのページ ![]() ちょうど神戸高校が建っているところが神戸城跡地らしく、今は本丸の跡だけが学校の横にぽつんと残っている。野面積みの豪快な天守台がきれいに残っていてなかなか楽しめた。高校の逆側には神戸公園としてきれいに整備されていてそちらには少し内堀も保存され、公園側から見た天守台もなかなかのものだった。(H9.2.1) |
亀山城 近世 平山城 |
![]() |
津城 近世 平城 |
古くは長野氏の一族が築城したとも言われるが不明。 1568年に伊勢攻略を行っていた信長は長野氏の攻略にてこずり、弟の信包を長野氏の養子にすることを条件に和睦し、信包は1580年にこの地に五層の天守閣を持つ城郭を完成させた。1608年には伊予今治から藤堂高虎が入り、11年に東海道を押さえる政治色強い城として大改修を行った。本丸の北側を広げて三層櫓を3つ建てたほか、伊予からついてきた商人を城下町に住まわせて無税としたり伊勢神宮に向かう参宮街道を城下町に引き入れるなどして五百戸ほどに過ぎなかった城下町を生まれ変わらせた。明治に入り、櫓などは売られてしまったが昭和33年に三層の櫓が復興された。 *日本の城(中部地方)のページ *三重県のページ *津市のページ *IBMホームタウン・ホームページ ![]() |
松阪城(C) 近世 平山城 日本百名城:48 |
*日本の城(中部地方)のページ![]() |
大河内城(D) 戦国 山城 |
*三重県のページ |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
鳥羽城(D) 戦国 水城 |
*鳥羽市のページ *日本の城(中部地方)のページ |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
伊賀上野城 近世 平山城(184m) 日本百名城:47 |
![]() この城は1585年筒井順慶の養子である定次が大和郡山からこの地に移って築城したもので、定次は土豪の掃討に躍起になった。1608年豊臣氏との決戦を控えた家康は定次では頼りないと伊予今治から藤堂高虎を呼び寄せ、伊賀と伊勢の一部を与えた。高虎は津城を平和時の本拠、上野城を大阪城に備える戦闘時の本拠とし、特に西側の城郭を拡張・整備した。また高虎は伊賀の土豪を手なずけ、忍者を無足人として採用したと言われる。 高虎は五層の天守閣を建てたが完成間近の1612年に暴風雨で倒壊、15年に豊臣家が滅びてからは再建されなかったが、昭和十年には復興天守が建てられ、日本一高い石垣と共に大きな見所となっている。 *NINJAのページ *三重県のページ ![]() |
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