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城名

由来・遺構・エピソードなど

水戸城(C・・・移築門あり) 水戸城は鎌倉時代、馬場氏によって築城されたと言われる。その後江戸氏、佐竹氏の居城となり、その改修は関ヶ原合戦まで続いた。その後家康の七男武田信吉、十男頼宣、十一男頼房が入城。頼房の子孫が御三家水戸徳川家となった。連郭式で二重櫓三基を上げ、三重天守は明和気に再築された。
現在、遺構としては水戸第一高校に「薬医門」が復元されて現存、三の丸に「弘道館」の一部が残り、あとは旧庁舎前に空掘が残るのみ。
お城の旅日記
城址うぉっち頁

水戸に旅行に行ったので、無理やり寄る。高校の敷地内に門が移築されて残っている。この門はなかなか重厚で、当時を偲べる唯一の遺構だろう。その他庁舎前に堀跡と土塁跡も残っていて、こちらは下りて行ける。雨上がりだったので靴がびしょびしょになったけど、それはそれで面白かった。
でもやはり御三家の城跡としてはあまりにも遺構が少なく、かなり大きな城だったはずなのに、それを充分には偲べない。その部分は残念ではある。(2004.5.9)

笠間城(C・・・移築櫓あり)
近世
山城(182m)
宇都宮一族の笠間家が鎌倉期に築城、戦国期には北条方につき共に滅亡。関ヶ原の合戦後、永井・浅野家らが入城、近世城郭とした。その時、この佐白山が石材地であったため、関東では異例の石垣を用いた天守曲輪となった。遺構としては関東で唯一の石垣の天守曲輪に合わせ、城下の真浄寺には八幡櫓が移築現存している。
日帰りで来るには少々遠かったが、来た価値は充分にあった。関東でこれだけの石垣を持つ山城に出会えるとは思わなかった。高梁・高取と並ぶ近代山城ではないかと思う。大手門の石垣から古道を登っていくと石段と石垣が続き、二の丸・本丸・天守曲輪が続く。全体像として城を見る事ができるという点で、近代山城はやはり最もワクワクする。
惜しむらくは道路が縦横に走っていること。大手門から本丸までの古道を何度かアスファルトの道路が交差しているのである。それでもできる限り石垣や石段には影響が無いように存在しているのでまだマシではあった。
帰りに、櫓が現存すると言う真浄寺に寄ってみた。七面堂と呼ばれる建物だったが、入口正面に建っていて、不思議な感じがした。県内唯一の現存櫓だと言う。全国を見てもとにかく現存する城郭建造物は少ない。どんな形であれ、少しでも長く、こうした遺構が残っていて欲しい、切に願うばかりである。(H16.11.6)
逆井城
戦国
水城
1557年、後北条氏が佐竹・結城・多賀谷氏と境を接するこの地に築城。玉縄城主であった北条氏繁が飯沼を臨む高台に築城し、北進を続けるも翌年本城で没、その後氏舜が城代となった。秀吉の小田原攻め後、廃城。
昭和58年度より始まった城址整備計画として、日本では初めての戦国城郭建築の模擬天守が作られ、その他、礎石を基に復元された櫓門・橋や、土塁・空掘りなど、中世城郭の遺構が良く残っている。別名:飯沼城
駐車場からまず目に入るのは凝った模擬天守と櫓。その向こうにはわずかに残る飯沼がある。天守には入れるようになっていて、入ってみると模擬天守とは言いながら、総木作りの本格的なもの。余計な展示もなく、非常に好感を持ちながら奥へ進む。屋敷跡を囲む空掘、井戸、その向こうには櫓門と橋、さらに奥には大きな郭があって虎口まで分かる。広大な敷地に非常によく遺構が残っていて、大変満足した。ちなみに、観光客はゼロ。世間にはなかなか受け入れてもらえないなぁ・・・(H15.2.23)
土浦城 永享の頃、若泉氏の築城と伝えられ、後に菅谷氏、結城氏が入城。関ヶ原の合戦後、松平信一・西尾忠長・朽木稙綱らによって拡張され、土屋氏が城主で明治を迎えた。現在、関東唯一の櫓門建築「太鼓門」薬医門の霞門、高麗門が残り、本丸の東櫓・西櫓が復元されている。
久しぶりに城らしい城に行った、というのが本音。少し語弊があるが、やはり城と言うと「櫓」「門」「石垣」「堀」があって欲しいというのが正直なところなのだ。(天守があれば、なお良いが・・・)この城は二の丸と本丸がほぼそのまま残り、本丸の周囲の堀もほぼ残っている。さらに櫓門とさらに2つの門が現存し、2つの櫓が復元されている。土浦と言うとやはり櫓門が有名なのだが、周りの石垣の修復か何かをやっていて、肝心の櫓門が半分隠された状態で、かなり残念だった。復元された東櫓には入場することが出来るのだが、総木作りで工法も江戸時代のもので復元されているため、非常に好感が持てた。
ちなみに、堀の周りをうろうろしながら写真を撮っていたら、何とデジカメの電池が切れてしまった!情けない。まぁそれほどいい城だったという事である。(H16.11.6)
小田城
南北朝
平城
鎌倉初期より小田氏の居城。南北朝の動乱期には、北畠親房が滞在、南朝方の関東勢力として、ここを拠点に活躍。有名な「神皇正統記」はここで書かれた。
戦国期には、北条氏の勢力拡大のもと、小田氏は去就が定まらず、上杉謙信や佐竹義重、太田三楽斎らに攻められ、三度落城、最終的には佐竹氏に完全降伏することとなった。関ケ原の合戦後、佐竹氏は秋田に移封となり、廃城となった。
普通の広い農地のど真ん中に方形の丘があって、これが本丸跡だという。周りを見回してみると、農地なのだが、明らかに堀だったであろう部分が浮かび上がってくる。農地が段々になっていて、低い農地が堀跡、高い農地は土塁跡、それが丘の周りに沿うように続いているのである。道も通っているし、失われている部分も多いと思うが、それでも農地であることが幸いしてかなり広大に遺構が残っているように思われる。史跡公園化の計画もあるらしいので、その暁にはまた是非来たいと思う。(H16.11.6)
豊田城
南北朝
水城
築城は14世紀中旬、豊田12代善基が川べりに築いたと言われる。戦国時代には姻戚関係を結んでいた小田氏と共に佐竹・多賀谷氏の南進を防いだ。現在は石下町地域交流センターとして模擬天守が建てられている。
石下に向かって車を走らせ、橋を渡ろうとした時、ドドーンとバカでっかい建物が目に飛び込んできた。正直笑えた(すみません)回りは田んぼや小さな建物しかないところに五層天守はどうしても違和感がありすぎる。名古屋城辺りをモチーフにしたんだろうか、緑瓦の五層天守。中はいろんな展示がされているのだが、そこに外国人と思しき数人を見かけた。「これが日本のお城とは思いませんように・・・」(祈)(H15.2.23)

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余湖くんの千葉城郭ページ

城名

由来・遺構・エピソードなど

千葉城
中世
平山城(30m)
古代から中世にかけて下総国を中心に活躍した千葉氏の居城。この城が建てられた平安時代末期(1126)以後、千葉氏は鎌倉幕府創設に尽力し、下総守護職に任ぜられた。鎌倉、室町を通してこの地方に権勢を誇った千葉氏も、次第に衰え、戦国時代には里見氏の進出に苦しみ、後北条氏と結んだが、秀吉の小田原征伐時に滅亡した。いまは千葉市立郷土博物館として小田原城を模した天守閣的建造物が建てられている。また、天守閣的建造物前には実際の城跡と思われる土塁が残っている。
千葉市のページ
はたぼうさんの日本名城案内
会社の先輩の家に泊めていただき、翌朝車で連れて行ってもらう。城らしい縄張りも何もなく、ただ丘の上に天守閣のようなものが建っているにすぎず、天守閣内部も通り一辺倒の武具や書状の類であった。ただ、市が運営しているからか、入場料が一人60円!!安い。なぜかわからないがエレベーターにはエレベーターガールならぬ「エレベーターおばさん」がいて、しかも何の案内もしてくれない。あれは何の為にあそこにいるんだろうなぁ。実に不思議。(H11.12.19)
古河城(E・・・移築城門あり) 室町時代、中央政府としての幕府が京都に置かれたため、鎌倉を初め戦略上重要な地域である関東地域を統括するため、鎌倉府が置かれた。室町幕府の将軍は公方と呼ばれたが、第二の幕府としての鎌倉府のトップは鎌倉公方と呼ばれた。初代鎌倉公方足利基氏は鎌倉府を鎌倉に置いたが、1455年足利成氏は御在所を当地に移し、以来古河公方と呼ばれる。その後後北条氏が下野、常陸進攻の前線基地とし、その後も重要な戦略上の拠点として整備が繰り返された。その堅固さは秀吉による小田原攻めで破却を命じられる程であった。近世になってからは小笠原秀政・松平康長・奥平信之・永井直勝・土井利勝が入城、この代に御三階が上がり、関東では江戸城に次ぐ規模の大城郭となった。現在、城跡は明治末から昭和初期にかけての渡良瀬川大改修により川の底に沈められてしまい、往時を偲ぶものは市内の福法寺に移築されたと伝えられる城門だけである。
募巣豚私立博物館
結城城(D) 結城合戦において室町幕府と管領上杉氏に対抗した北関東の豪族が立てこもった城であり、主戦場となった。戦国期になって有名な法度を定めた結城氏が入り、小田原平定の後に家康の次男を迎え、結城秀康を城主とした。関ヶ原の合戦後に福井に転封、幕府の直轄地となった。遺構は特にないが、城下を巡る御朱印堀がよく保存される。
栃木の城+α
佐倉城(C) 1610年、土井利勝が江戸城搦手防備の控城的な目的で築城。石垣は一切なく、土塁と空掘を巧みに用いた実践的な城。1617年に三重天守閣と五基の櫓を上げ、虎口には壮大な櫓門が構えられ、さらに馬出・内枡形が駆使されており、兵法上極めて注目される存在であった。
成田市のページ
JR成田線「佐倉駅」から徒歩20分、佐倉城址公園となっている。晴れていて、また気候も良く、桜も結構残っていたので、たくさんの人が敷物を持って花見に来ていた。という位であるから芝生がたくさんあって、雰囲気のすごいいいところ。今度来るときには是非とものんびりしに来たいものだ。
さて、城跡であるが、建物は何も残ってはいないが、空掘が非常に良く残り、十分に昔を偲ぶことが出来る。感じたのは、石垣が城ではないということ。「天守閣=城」という人は周りに多く、常に「そうではない!」と主張してきた私だが、生まれも育ちも西日本ということがあったのかもしれない「石垣=城」という認識は思った以上に深かったようだ。最初はあまり遺構が残ってないのかなぁ?と思ってたら、土塁、石垣、さらに馬出しまで、それだけでも縄張りが想像できそうなくらいである。こういう城跡こそ、将来に残していきたい。是非とも訪れていただきたい城である。
城と駅の間には、武者屋敷があり、ちょっと寄ってみた。土塁の上に生垣があるのが佐倉地方独特のものだそう。防御目的もさりながら、登城時の馬に乗った武将から家の中を見えなくする役割もあったのだとか。房総では最大の城下町、今回は思ったようにブラブラできなかったが、一日ブラブラするのもいいだろうと思う。(H13.4.15)
臼井城(D) 千葉氏の一族臼井氏の居城。1590年の小田原落城の際に千葉氏と共に滅亡。江戸期には酒井家次3万石の居城となり、1604年の転封まで使用された。
現在、本丸、二の丸を中心として、空掘・土塁等がよく残る城址公園となっている。
佐倉城の西近くにある。期待していたよりも断然規模が大きく、縄張りもよく分かる。印旛沼を望める要衝にあり、上杉謙信・太田道灌の攻城戦はどんなだっただろうか、と考えていると時の経つのを忘れそうである。こういうところを公園にしているのは素晴らしいと思う。ちなみに、娘は必死にどんぐりを拾っていた・・・(H16.2.14)
高岡陣屋(E) 1640年、島原の乱鎮圧に功を上げた井上政重が一万石に加増されて高岡藩が誕生。但しこの陣屋が建てられるのは曾孫の正蔽の時であるが、周りには芸者屋と居酒屋が数件あった程度とも伝えられる。
成田市のページ
JR成田線「滑川駅」から徒歩15分、今はJAと神社になってしまっているが、その前に木と石の碑が立っている。本当にそれだけ。(H13.4.15)
関宿城
中世
平山城
1457年、古河公方「足利成氏」の家臣梁田成助の築城と伝えられる。1590年、家康が江戸に入ったときに、江戸の防衛の要であるこの城に異父弟である松平康元を配置、その後藩主は老中、京都所司代など幕府の中心となって活躍した人物が多く、さらにこの城を出る藩主のほとんどは位・石高が上がり、出世城とも呼ばれた。現在は千葉県立関宿城博物館として模擬天守が立つのみであり、遺構は特に残っていない。
千葉県
江戸川と利根川が分岐する千葉県の北端に位置し、見るからに重要な位置に建っていた。博物館は入口を入ったところに顔のところだけ穴があいてある侍とお姫様があったりして、恐ろしく観光地だった。ということもあって、中には結構な観光客らしき人がいた。一応最上階には上がってみると、川の分岐がよくわかり、要衝の地であったことが良く理解できる。
少し離れたところに実際に本丸があったところであろう、石碑が建っている。一応木で囲まれた郭のようになっているが、特に遺構はなさそうであった。残念。(H15.2.23)
小金城(C)
戦国
平山城
戦国期に下総西部を支配した高城氏の本拠で、起伏のある丘陵地に築いた南北600m、東西800mの大城郭だったという。現在は外曲輪の虎口であった金杉口、達磨口付近のみであり、金杉口が現在、市の歴史公園となっている。障子堀、畝堀などの遺構が残る。
公園としてよく整備されていて、城跡を残していくためにはこうする以外にはないんだろうなぁ、と妙に納得する城跡だった。一部とはいえ、こういう本当の意味での遺構が残っていくのはいいことだと思う。周辺が宅地化されているため、どうしても全体像はつかめないが、特殊な空堀の実物を見ることができるなど、非常に興味深かった。(H15.2.23)
国府台城(C)
戦国
平山城(30m)
1479年、太田道灌が千葉自胤を助け、千葉孝胤討伐のために築いたのが始まりと言われる。1538年、小弓公方足利義明は里見義尭をはじめとする房総の軍1万余を率い、北条軍2万余と対陣、江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘の末戦死し、房総勢は敗退。1564年、里見軍8千が再び北条軍と対戦、北条軍の奇襲により5千の戦死者を出す大敗北を喫し、義弘は安房に敗走、以後館山城を本拠とする。この後北条氏の支配下となり、江戸時代に廃城とされた。現在は城址一帯が里見公園となっている。
千葉市の遺跡を歩く会
かなり大きな公園で、城跡を丸ごと公園にしたようなイメージだった。市民の憩いの場として、ベンチで話をしている人、広場でバドミントンをしている人、芝生で寝ている人、城跡がこういう風に保存されているのは好感が持てた。ただ、途中あたかも現存しているかのように見える石垣があるのはどうかと思う。時代背景から明らかにおかしいのだ。それでも土塁・空堀がかなり残り、何より全体として残っていること、江戸川沿いにあって城内から対岸の東京都が見えることなど、国府台合戦と呼ばれる二度の合戦の舞台を堪能することが出来た。(H16.11.3)
大野城(E)
戦国
平山城
平将門が天慶の乱の時に築いたという伝説があるが、昭和54年に行われた発掘調査では戦国期のものと推定されている。歴史的な詳細は不明であるが、空掘・土塁の一部が残る。
市川法務局に行く途中で見つける。第五中学校の敷地が中心であったようだ。何か遺構があるかどうか、じっくり調べることは出来なかったが、小高い丘の上であり、雰囲気は楽しむことが出来た。(H16.2.10)
松戸城(E)
戦国
平山城
1400年代には千葉氏族である原氏によって築かれたと考えられる。第一次国府台合戦では北条氏綱・氏康軍がこの城に入ったとされる。その後は小金城の支城となり、1590年に後北条氏が滅ぶと共に廃城となった。1884年には徳川慶喜の弟である昭武がここに屋敷を建てた。現在、戸定邸として、一般公開されている。近代徳川家の住まいと庭園が一般公開されている唯一の場所である。
暇つぶしに松戸近辺を散策していて立ち寄った。小高い丘になっており、全体が城だったのだろう。一角に戸定邸があったのでせっかくなので見学することにした。一応、くらいの気持ちで立ち寄ったのだが、想定以上に広く、良く残っていて、非常に楽しむことが出来た。江戸期のものでいえば御殿建築になろうが、それよりも一般家庭寄りだが、普通の家庭の家にしては立派過ぎる。その中間点辺りの感じというか、明治時代のお金持ちの家がそのまま残っていて、感じることができる。見るべきものは多いが、何といっても木造建築の中に石でできた蔵があるのは驚いた。非常に満足できるスポットである。(H28.10.16)
相模台城(E)
戦国
平山城
1241年、第六代執権となった北条長時が館を構えたことに始まる。1538年の第一次国府台合戦では、小弓公方軍が国府台城、北条軍が松戸城に入り、この城には小弓公方軍の先鋒が入っていたとされ、この城付近で最も激戦になったと言われる。
暇つぶしに松戸近辺を散策していて立ち寄った。聖徳大学や松戸中央公園があるが、城らしい遺構はほぼない。大正8年に陸軍工兵学校が開設され、松戸中央公園の一角にその門柱と門衛が残る。(H28.10.16)

上総(Yahoo!千葉中部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

久留里城
戦国
丘城
1541年真里谷氏の居城であった当城を里見氏が攻略、北条氏との攻防拠点とした。家康の江戸入城後は大須賀氏・土屋氏・酒井氏・黒田氏らが入城した。山頂には二重天守閣、麓の居館にも櫓を配し、根小屋式山城の形態を取った。現在山頂にある二層三重の天守閣は浜松城を模した模擬天守であるが、天守台は当時のものを用いている。戦国山城の形態をよく伝える関東では貴重な遺構である。
異動になって千葉に引っ越してきて初の「お城めぐり」レンタカーを借りてふらっと訪れる。久留里の町のはずれにあり、車で来ると町の真ん中を一回通るのだが、中心部らしきところに、天守閣の絵が乗った門がある。この町にはお城があるんですよ!と言っているのか。
麓の駐車場に車を停め、天守までの道はどうも二つあるらしく、コンクリートの道と、ハイキングコースのような山道。当然山道を登ることにしたのだが、やはり暑くて暑くて。とはいえよく整備された山道で、歩きやすいし、さわやか系の森だったのもあって、気持ちよく山頂に。約一キロくらいか。天守はというと、ありがちなというか、天守台は古そうでいい感じなのに、その上に綺麗な模擬天守が乗っている。中に入ると、現存12城の写真があって、特にその他の展示はなし。てっぺんからみると、綺麗な山の景色。
帰りはコンクリートの道を降りる事にしたのだが、途中で展示館がある。無料というので入り、一通り見るものの、大したものはない。とはいえ、ハイキング的感覚で来れる良いお城ではなかろうかと思う。(H12.7.22)
キャンプに来たら、近所に久留里城があったので帰りに寄ってみた。初夏ということもあって花がたくさん咲いていて、非常に爽やかで、ちょっとしたいい運動になった。天守はコンクリートで、外観復元でもなく、そういう意味では見るべきものはないが、ちょっとしたハイキングコースとしては非常に貴重だと思う。
ちなみに、模擬天守のある横に本来の天守台があるのだが、そちらは入ることも見ることもできないのはどうも納得いかない。貴重な遺構なので破損を防ぐ意味なのだとは思うが、誰にも見られず、誰の記憶にも残らない。今後何とかしてほしいものである。(H23.4.30)
大多喜城
近世
山城
1590年、上総夷隅郡十万石に移封となった本多忠勝が築城。夷隅川の作る複雑な山地に自然石と大きな堀切で近世城郭を構築した。三重天守を山頂に、九基の櫓を並べ、麓には壮大な殿舎を構えた。今日、三重天守が復元され、内部は房総地方城郭資料館となる以外にも、麓には御殿薬医門が現存する。
大多喜の町からは少し離れたところに位置し、ちょっと迷いながらも、お土産やさんの駐車場に車を停め、100メートルほどで復元天守。これがまたやたら綺麗で、なんとも言えず興醒め。内部は完全に歴史資料館となっていて、資料としては結構な品揃えであったのではないかと思う。そこで麓の高校にある二の丸御殿薬医門が現存していることを発見し、とりあえず見に行くことに。
夏休みで部活の練習なんかをしている中、堂々と校門から車を乗り付ける。小さい門だったが、これは何ともいい感じで、そこからちらりと見える天守もまたいい感じだった。
帰りには、十万石最中(有名らしい。老舗的な小さい店で買った。)を親にお土産に買って帰る。一つだけ二人で食べてみたのだが、これが美味い。すごい大量のあんこで、これがまた何とも言えない。行かれたら是非とも食べていただきたい(H12.7.22)
一宮城(E)
中世
平山城
築城時期は不明だが、戦国時代には里見氏に属した正木氏が支配。小田原合戦で本田忠勝により落城。一旦廃城となるが、江戸後期に陣屋として再整備されるが、廃藩置県により再度廃城となる。
久留里にキャンプに来た帰りに足を延ばす。
一応、城山公園となっているが、見るべきものはほとんどなかった。入り口に大手門らしきものが建てられているが、恐らくは模擬。中に入ると武道場(「振武館」というらしい)があり、その奥に少し開けた場所があって、そこからは一宮の街並みが一望できる。
城のすぐ近くには一ノ宮の地名の由来となった「玉前神社」、3キロほど行けば海岸があり、海鮮料理がおいしい店もたくさんある。町としては非常に楽しい町であった。(H23.10.9)

安房(Yahoo!千葉南部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

館山城
近世
丘城
戦国大名里見氏の最後の本拠となった城であり、稲村・久留里・佐貫城を構え、里見義堯の代には北条氏と激しい攻防を繰り返した。近世大名となった里見忠義は近世城郭に改修するが、大久保事件に連座し、改易されてしまう。遺構としては虎口と堀切を伴って本丸跡にわずかに石垣が残る。天守閣は模擬であり、旧館山城の景観とは異なるものである。
亀山湖にキャンプに行って、あくる日に鴨川シーワールドに行き、さらに帰りにちらっと寄ってみた。わずかに遺構と思われる堀があったように思うが、下のほうに公園があったり、本丸に至る途中に孔雀のオリがあったりして、基本的に普通の丘。小高い丘の上になぜか天守閣的建物が建っている、という感じ。とてもいいとは言いがたい城だったが、城というものを残していくためには仕方ないんだろうか。妙に考え込んでしまった・・・(H15.6.15)
千葉県のページ

武蔵(Yahoo!埼玉東京

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城名

由来・遺構・エピソードなど

忍城(おしじょう) 1490年、中世武士団の頭領であった成田親泰が築城。成田氏は当城を本拠に北武蔵に強大な武士団として成長し、戦国期には関東管領山内上杉憲政や古河公方足利晴氏と結び、北条氏の北進をくいとめ、上杉氏の南進に対しても落城しなかった。後に北条氏に属し、秀吉の小田原合戦に際しては石田三成や長束正家らの大軍による水攻めにも全く動じなかった。ついに小田原落城後に北条氏長が開城勧告を出すまで開城しなかったという天下の堅城である。近世になって川越、岩槻と共に江戸背後の要として松平忠吉・酒井忠次・松平忠堯ら大老・老中といった幕閣の要人が入城した。天守としては二の丸に御三階櫓を上げ、5つの島を曲輪とする行田市街を囲む広大な城域を持っていた。
現在、遺構としては石垣・土塁・水堀といったものが残り、昭和63年には天守が復元された。
埋もれた古城
水城公園の駐車場にとめて、復元されたという天守を探すと・・・無い。少し歩くと・・・彼方に見えてきました。何でこんなに離れてんのかな?と思ったら、天守、というよりも御三階櫓を復元したらしいのだが、これは本丸に復元していて、公園は城の末端に位置するらしい。御三階櫓は行田市郷土博物館になっていて、城の全体模型等も置かれているが、それを見ると御三階櫓は三の丸よりさらに外れに建っていたらしい。つまり、この建物は何も無かったところに勝手に建てたということになる。石垣などはよく作られていて、本物かと思ってしまった。中はご多分に漏れず大したものは無いが、それでも木目調に色を統一しているだけでも少々は好感が持てた。
その後水城公園をブラブラしていたのだが、広大な沼に各曲輪を島のように配置していた当時を想像すると、光秀ではないが、水攻めにでもしないと落ちないような気がしてくるのは気のせいだろうか・・・(H15.10.5)
鉢形城(D)
室町
平山城
長尾景春の築城と伝えられる。戦国時代は後北条氏の拠点となり、1560年ごろ北条氏康の三男氏邦が入り、増強。後北条氏の北関東経営の拠点となった。秀吉の小田原征伐の時には守兵約3千に対し、前田利家・上杉景勝ら率いる3〜5万の大軍に攻められ、約1ヶ月にわたる攻防の末、落城している。
現在は城址のほとんどが林業試験所となっており、土塁・空掘は断片的にしか確認できない。
松山城(D)
室町
平山城
武蔵七党の一つ上田氏が1399年に築かれたのが起こりと伝わる。上田氏が城主のまま上杉氏の支配下にあったが、1546年川越城主北条綱成に攻略され、以後後北条氏の支配化に入る。川中島で上杉武田両軍の激突が続いていた1561年、北条の武田加勢を牽制する意味合いで謙信は太田資正に命じて松山城を急襲させ、奪ってしまう。翌1562年には武田北条5万に攻め立てられ、謙信の応援を待ったが、応援到着直前に謀略により落城する。世に言う「松山合戦」がこれである。武田氏滅亡後、一旦は滝川一益の支配下となるが、また北条の支配下に入り、秀吉の小田原攻めで落城。1601年に廃城となる。
これだけ攻防の激しい城も珍しく、それだけ重要な位置にあったということであろう。遺構はほとんど残っておらず、ごく一部土塁跡らしきものが見られるのみ。
曲輪跡がよく残る山城だった。裏から道なき道を登ったのだが、割とすぐに本丸跡に到着。すぐに本丸に行けるこんな道、当時はなかっただろうと思うが、今となるとありがたい。上から見ると二の丸、三の丸、その他曲輪がよくわかり、非常に面白かった。ちなみに、本丸跡には神社が建っていたらしいのだが、本尊は土台しか残っておらず、左側にあったと思われる建物は倒壊していた。このままほっといていいのかなぁ?(H15.10.5)
川越城 1457年扇谷上杉の部将太田道灌によって江戸・岩槻と共に築かれた。城の完成と共に扇谷上杉持朝が入城、以後80年間本拠となった。扇谷上杉氏は太田道灌の機略によって勢力を増したが、山内上杉氏によって道灌が暗殺されてからは一進一退を繰り返した。その漁夫の利を得たのが後北条氏で、1537年には事実上扇谷上杉氏を滅亡に追い込んでしまう。同じ年、両上杉氏は手を組んで川越城奪回に八万余騎もの兵を動員し、川越城を取り囲んだ。ところが城を守る北条綱成と北条氏康の機略により簡単に崩壊させられてしまう。いわゆる「川越の夜戦」である。江戸時代になって家康は江戸城の前衛として重要視し、酒井忠重を城主として本格的に改修させ、三層の天守のほか、七基の櫓が上がった。現存する本丸御殿は1848年に松平斉典によって作られたもので全国的にも貴重な遺構である。
川越市教育委員会
kみむさんのページ
本丸御殿が残っているというから非常に期待して行ったのだが、なーんと休館日だった。なーんとついてない。駅から結構な距離を歩いて行ったというのに・・・まあ立派な外観を見れたから良しとしておこうか。それと、川越城は天守がなかったため、その代わりをしていた富士見櫓跡があった。ただこれも単なる丘がぽつんとあるだけで、縄張りなどが想像できるレベルのものではなくてちょっと残念だった。(H9.3.21)
本丸御殿が開いてました!やった!でも車がやたら混んでいるなーと思ったら本丸御殿の向かいで何やら錦鯉祭りなるものをやっている。混んでるわけだ。
それはそうと、本丸御殿、素晴らしかった。見ようによっては普通の広くて古い家なんだけど、そこは城郭建築、大広間の襖絵とか、廊下に沿った細長い控の間とか、お城たるべき要素が多くて感動。1990年に上福岡市に移築されていたという家老詰め所が戻されたとかで、そちらも合わせて素晴らしかった。やっぱり現存しているものは重みが違うなー。かつては今残っているものの5〜10倍あったというから、想像するだけで楽しくなってくる。是非行っていただきたい遺構である。(H15.10.5)
江戸城
近世
平山城
〈田安門,清水門,外桜田門〉
江戸時代の政治・経済の中心となった名城。1605年から30年以上かけて築かれた世界最大の木造建築。当時五層六階で、38×34b、高さ61bであったが、1657年の明暦大火で全焼し、以後再建されることはなかった。その他にも三重櫓が七基、二重櫓が十二基、単層櫓が五十五基、城門は127基あったという。現在残っている櫓は関東大震災で大破したものをコンクリートで復興したものである。城門はいくつか現存し、3つは国の重要文化財に指定されている。
宮内庁
小島さんのページ
就職活動で東京に行った帰りに時間が余ったので立ち寄る。江戸城とは皇居のことであるが、見学できない訳ではない。西の丸とその他2/3ほどは入れないが、本丸跡や二の丸・三の丸のある東御苑には無料で入る事が出来る。中は広大で、周りの官庁社とのコントラストが不思議な感じがする。また、二の丸庭園は花が咲き誇っていて奇麗だった。その後、とりあえず歩いて皇居を一周して大抵の橋を見たのだが、猛烈に疲れた。これだけはお勧めできるものではない。(H8.6.26)
八王子城(C)
戦国
山城(460m)
1584年から1587年にかけて築城され、後北条氏の宿老氏照の居城となった。東国では最も優れた技術を駆使したものだったが、1590年の小田原合戦では上杉・前田らの大軍に攻められ、わずか1日で落城した。現在要所要所に石垣が残り、御主殿・御天守の跡も残っている。
中央電子(株)
高尾通信

「まさかこれほどの城跡とは思わなかった。」というのが正直な感想。
まず御主殿跡に行ったのだが、古道を200メートルほど歩くと、出現する橋と石垣。その橋を渡ると、総石垣の階段が続く。戦国時代の城跡で、修復補填されているとは言え、ここまでの石垣を見れるのは全国でも随一じゃないだろうか。階段は「コ」の字型になっており、枡形とか馬出しの考え方に近いものと思われる。さらに、橋を落としてしまうと御主殿だけで独立した曲輪になる。城主は日常ここで過ごしていたのだが、この後ろにある山が戦闘時に立て篭もった本城である。
雨上がりだったので少し悩んだが、やはり登ることにした。山道は充分整備されていて、ハイキングコースとも言えそうな感じだったが、途中からはさすがにそうも楽しんではいられなくなってきた。勾配が急で、道も狭くなり、山城はかなり久しぶりだったこともあって、かなりバテた。しかし、山頂近くになると急に視界が開け、眼下に多摩丘陵が一望できる。登山を趣味とする人はこれを楽しみにしているんだろうなぁ、という景色である。一方城はと言うと、途中いくつか曲輪があり、本丸は山頂。でも、猫の額ほどの広さしかない。小田原合戦では城主不在のため氏照に代わって守備していたという横地監物、これだけの規模と堅固な城を、一日で落城させたという上杉・前田軍、どちらについても脱帽である。
とにかく素晴らしい城跡だった。御主殿だけでも、是非行っていただきたい城跡だと思う。(H16.10.31)

滝山城
戦国
山城(80m)
1521年に武蔵国守護代の大石定重が築城、北条氏照が落城させ、北関東運営の居点とした。多摩川と秋川の合流点の自然を巧みに利用した城は、難攻不落であり、1569年武田信玄の軍勢2万人を2千の兵で守り抜いたと言われる。しかしこの戦闘の後、氏照はより堅牢な八王子に築城を開始、居を移した。
八王子市
中央電子(株)
高尾通信
八王子城の後で行ったのだが、八王子城に時間を取られすぎて、着いたのは5時頃。もう既に日が暮れかけ、ぼやーっとしか見えない状態になっていた。何とか本丸への橋を見つけ、本丸に来てみたものの、何となくしか分からない。それでも規模の大きさと本丸が独立した構造など、概略は見る事が出来た。橋を落とすと本丸が独立する構造は、八王子城の御主殿に通じるところがある。非常に興味深い城跡だった。(H16.10.31)
片倉城 大江広元を祖にもつ長井氏によって、室町時代に築城されたと言われる。空堀・土塁等の名残があり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す。
八王子市
高尾通信
完全に公園化されている。二の丸跡では親子連れがボールやフリスビーで遊んでいた。本丸も同様に芝生で広場になっているのだが、どうも城という雰囲気が希薄である。各所に土塁や空堀があり、それなりの規模の城であるとは思うのだが、さすがに時間が経ちすぎて原形を留められていないということだろうか・・・(H16.10.31)
岩槻城
室町
平城
1457年、太田道真・道灌が築城。扇谷上杉氏が、吉河公方に対する拠点とした。元荒川と綾瀬川にはさまれた地形を利用して築かれ、別名を「浮き城」という。江戸時代は江戸城の衛星的支城として幕府の重臣が配された。
現在の城跡は、城跡の中心部分を県道が横切り、遺構はかなり限定される。それでも城址公園には大手門が移築され、土塁上には時の鐘が残る。
川口さんのページ
元荒川沿いに岩槻公園があり、ウロウロしてみる。市民のための公園となっていて、大きな芝生があって、アスレチックのようなものがあったり、池があって鯉が泳いでいたり、なかなかいい雰囲気。その横には野球場があり、向かいに移築された門が二つ。看板にはどこの門か分からないと書かれてあるが、確かに岩槻城の物らしい。あとは土塁と空掘がかなり大きく残っている。ここではなんと空掘をそのまま「散策の路」としてしまっており、非常に興味深かった。結構犬の散歩とかをしている人を見かけた。
ただこちらは本丸ではなく、本丸は県道の下に消えてしまったという。残念。本丸のあったところから県道を大手口のほうに戻り、すこし横道を入ると時の鐘が民家の隙間に現存している。かなり注意深く探さないと見つからないかもしれない。ここまでが城跡、ここからは城下町、という区切りらしく、想像力を働かせると少しは往時を偲ぶことができるのではないだろうか。(H15.10.5)
小机城
中世
丘城
長尾景春に味方をした矢野兵庫助は上杉方の武将太田道灌に攻められ、落城。上杉氏が凋落後は北条氏の支配下に入り、氏綱が大修築を行う。その後、秀吉の関東征伐により北条氏は滅亡し、本城も廃城となる。
横浜中華街に行った帰りにちょこっと寄る。横浜国際競技場のすぐ近くだった。細い道に、小さな看板で、「←小机城址市民の森」というのがあって、入っていくと民家のゴミ捨て場の間の山道を上がっていくことに。途中で竹が倒れていてやたら通りにくかったが、急な階段を登ると、とりあえずという感じで碑がたっていた。(写真)その横には普通の畑が。ひまわりが咲いていたりして、城跡という感じは全くない。その畑が曲輪跡だったりするのかもしれない。蚊が多かった。(H15.6.21)
石神井城
戦国
平山城
あの(矢鴨で)有名な石神井公園内にある城跡。公園駅側から公園に入ると城跡は完全に逆側にあるため、最初どこにあるのかわからず随分うろうろしてしまった。結局この公園、相当規模の大きな公園で、だーいぶ奥に行かねばならなかったのである。遺構としては三宝寺池の南岸に堀切が、少し上に土塁と空掘が残っている程度だった。その土塁・空掘もそう見れば見れなくもないくらいのものだが、フェンスで保護されていたからそれでもよく保存されているもののようだった。中世の、それも平城ではこれくらいが限界なのかもしれないが・・・。(H9.3.21)
世田谷城
戦国
平山城
14世紀後半に吉良治家が居住したのが始まりと言われる。始め鎌倉公方に、その後関東管領上杉氏、後北条氏と仕えた。小田原合戦で本城も廃城となった。今は豪徳寺境内とその隣に城址公園として土塁・空堀がわずかに残る。
城址公園は土塁と空堀らしきものが残っているが、土塁の周りがコンクリートで固められている。公園の奥の方には少し保存状態の良いものもありそうだったが、立ち入り禁止になっていた。豪徳寺は規模の大きな寺だが、城跡らしきものは何も無い。彦根井伊家の飛び地として世田谷領があったらしく、井伊家代々の墓があった。あの井伊直弼の墓もあった。都心での城跡ではこれくらいが仕方ないレベルなのだろうか。(H16.11.2)
渋谷城
平安
平山城
平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉道、西に渋谷川、北東には黒鍬谷、と天然の要害であった。しかし1524年の北条軍と上杉軍との合戦で焼き払われてしまったと言う。現在遺構は特に残っていないが、金王八幡宮の敷地が跡地。
渋谷駅から歩いて10分ほどの神社。さすがにこの場所では遺構は無い。だが、金王八幡宮社殿・門は江戸初期から現存しているものだというからすごい。この都心でこれだけの建物が見れるのは希少価値大だと思う。(H16.11.4)

相模(Yahoo!神奈川

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城名

由来・遺構・エピソードなど

小田原城
戦国
平山城
後北条氏の居城であり、戦国時代最大の城郭である。最初に築かれたのがいつなのかははっきりしないが、西相模国人領主大森氏が領主の時に北条早雲が乗っ取ってしまう。それ以後北条氏の居城として拡張が続けられ、1590年には惣構えの12キロに及ぶ囲郭が完成した。開城後の1591年には、その堅固さにより惣構えは破却された。現在天守閣と常盤木門が復元され、本丸跡は動物園になっている。
小田原市のページ
tecnetのページ
復元天守閣が建っているが、説明で見るのと階段のついてる場所が反対。さらに本丸跡一帯がなんと動物園になっている。なかなか良い復元をしている常盤木門の前ではゾウが飼われている。天下の名城小田原城を愚弄していると思うのは僕だけだろうか?駿府城とは逆に最悪の利用法ではないかと感じた。(H8.9.29)
石垣山城(C)
近世
山城(261m)
1590年の小田原合戦に際し、秀吉は水陸二十万の大軍で小田原城を包囲、当初は湯本早雲寺に本陣を置いた。四月に入り小田原城西方にそびえる笠懸山に築城を開始。突貫工事により築城は100日足らずで終了し、その日の夜それまで城の前面を覆っていた樹木をいっせいに取り除いた。小田原城では一夜のうちに現れた巨城に恐れおののき、落城を早めたと言われている。それで「一夜城」の別名を持つ。今日もところどころに石垣の跡が見られ、特に井戸の曲輪は圧巻。
tecnetのページ
小田原城を出たのはもう夕方だったが、そこから石垣山に向かう。途中で道を聞きながら向かうも、これもまたすごい山。前日の観音寺城がこたえていて、足ががくがくしていた。本丸跡はなんとか城であったことが分かるという感じでフーンという感じだったのだが、その後行った井戸の郭跡が良かった。これはほぼ完全な形で残っているのではないだろうか。あまり見に来ている人はいなかったが、見ずに帰った人は不幸である。そして帰る頃には暗くなりかけていた。(H8.9.29)
玉縄城(C) 埋もれた古城
大庭城 藤沢市

伊豆(Yahoo!静岡伊豆半島)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

山中城(C) 戦国写真館
韮山城
熱海城
近代
完全に観光用に作られたお城。ゆえに歴史的関連性はまったくなし。城郭資料館となっており、内部には資料が展示されている。入場料は850円。
a-netさんの熱海温泉のページ

甲斐(Yahoo!山梨

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城名

由来・遺構・エピソードなど

甲府城(C) 武田氏を滅ぼし、その領地を支配していた家康は1590年に関八州に移封され、羽柴秀勝、浅野長政・幸長父子らが相次ぎ入城し、城を整備。関ヶ原合戦後平岩氏などが入り、拡張整備、後には柳沢吉保の居城となった。本丸以下七つの曲輪は、階郭式平山城の典型である。
山梨放送
kみむさんのページ
本格的なお城に行くのは約2年ぶり。着いてみると何やら「甲府大好き祭り」なるものが開催されていて、出店がたくさん出ていて、地元の人でごった返している。
その中をかき分けかき分け、階段を登り、本丸天守台跡へ。想像していたよりかなり広く、本格的な城であった。天守台前の芝生では、娘がはしゃぎまわって遊んでいた。やはり城跡は憩いの場としての在り方が最もいいと思う。その意味ではとても好感の持てる城跡であった。
あと、いろいろと議論はあるのだと思うが、天守台跡に、ある程度歴史検証のできた天守を復元して欲しいものだ。建っていたかどうか分からないものに歴史検証もあったものではないのかもしれないが。難しいなぁ。(H14.10.13)
躑躅ケ崎館(C) 言わずと知れた武田信虎・信玄・勝頼三代の居館。詰めの城として要害山城を設ける。
武田神社として完全に観光地化している。入口のところの石垣の綺麗なこと。戦国時代の城跡で、あの石垣はひどいなぁ。やはり綺麗な石垣がないと、観光客は城とは思えないのかなぁ?でも西の丸には馬出しの一方が割と残っていて、見ごたえがあった。もちろん我々以外誰も見に来ていなかったが・・・(H14.10.13)
要害山城(C)
せっかく躑躅ケ崎に来たのだからととりあえず向かう。途中まで車で行き、そこから山道を登るも、かなり遠そうなので途中で引き返すことに。車の所に嫁さんと娘を待たせていたのだ。少し残念ではあったが、やはり子供ができると山城攻めは辛い。(H14.10.13)

駿河(Yahoo!静岡東部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

駿府城 1585年、家康は浜松に次ぐ居城として築城に着手、4年後に完成するも翌年関東へ移った。その後中村一氏、内藤信成が入城、1607年からは家康の隠居城として諸大名の助役普請により改修に着手、名古屋城と共に東海道における最大規模の拠点となり、五重の天守があがった。1616年、家康は城内にて没し、城主頼宣は和歌山城に移り、以後は城代がおかれた。
静岡市のページ
ちょっと時間が出来たので静岡駅で降りてちょこっと見てきた。なんと電車を降りてから再び乗るまでにほぼ1時間。それくらいで見てこれる城。どうも第二次世界大戦中に陸軍の基地になったらしく、内堀はほとんど埋められてしまって、その一部が掘り返されていた。それ以外は櫓が一つ復元されているだけで、あとは広場になっている。野球場もあり、歴史公園としてはなかなかいい利用法ではないかと思う。本丸跡には家康の像が立っている。(H8.9.29)
山中城 1587年11月から本格的工事が行われ、小田原合戦の際に北条氏勝が入った。戦闘は3月29日に豊臣秀次率いる6万の大軍に攻められ、わずか二時間で落城した。今日、昭和48年から発掘調査が続けられ、主要部分を検出して史跡公園として整備されている。畝掘、堀障子など北条氏独特な築城技法が見られる。
長久保城 静岡県古城めぐりのページ
足柄城 小田原合戦の際に北条氏忠が入り、惨敗した城。山中城と共に関八州の出入り口を固めた重要な城。
中井さんの古城址探訪のページ

遠江(Yahoo!静岡西部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

掛川城 〈油山寺山門,御殿〉
戦国期には朝比奈氏があり、1590年に山内一豊が入城、改修に着手した。三層の天守をあげ、三重の塁濠を巡らしたが、関ヶ原合戦後に松井氏が入り、定綱の代に天守が再築された。現在全国でも珍しい二の丸御殿と太鼓櫓が現存する。
掛川市のページ
NTT静岡のページ
掛川市役所のページ
見た瞬間「高知城に似ている」というのが感想だった。やはり縄張りをした人の好みというのはきっちり出るらしい。かつ、山内一豊という人の感性は俺の感性と非常に近いらしい。本丸、二の丸、三の丸という配置も、天守の作りも、何とも俺好みなのである。さらに本丸後には三の丸から移築されたらしい太鼓櫓が現存し、御殿建築まで存在するのである。まずは天守閣だが、復元とはかくあるべきと思えるもので、完全に木での復元であった。展示物はほとんどなく、従業員も気さくな人たちで、彼らの掃除のおかげでいつも奇麗な状態らしかった。城自体を展示しているという意識の現われではないだろうか。本当にかくあるべきである。屋上では従業員のおじさんが古城の場所や大手門の場所などを教えてくれた。さて、天守台の階段を降りると多聞櫓があるのだが、そこには入れてもらえない。ちょっと残念ではあるが、櫓を後方に眺めつつ二の丸御殿へ。明治になりかけの頃に出来たとはいえ、造りは本当に重厚で城主の部屋をはじめ、政務を執った部屋、奥向きの部屋、さらに城主とは直接関係のない財務や警備、目付の部屋などもあり、まさに役所として機能していた事をうかがわせた。全体としては全く素晴らしいというしかない。是非行って頂きたい。(H9.9.1)
浜松城 1570年に徳川家康が新居として建築に着手、1581年頃に一応の完成を見た。家康は1586年頃まで在城し、駿府に移った。城主は西尾氏を経て、譜代大名が入った。
浜松市のページ
浜松短期大学山本ゼミのページ
NTT静岡のページ
東海インターネットワーク協議会のページ
思ったよりも小さな城だった。石垣が見えたと思ったらその石垣で出来た小さな本丸があって、その上にはもう天守閣があるというそれだけの城だった。非常にメジャーな城なのでもう少し大きなものを期待していたので余計に小さく思えたのだろうが、天守閣も石垣も立派だったのは間違いない。天守閣内部には家康ファンにはたまらないであろうものでいっぱいだった。屋上はやはりいまいちではあったが。(H9.8.1)
二俣城(C) 日本の城(中部地方)のページ
高天神城(C) 大東市のページ

三河(Yahoo!愛知東部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

岡崎城 1455年に守護代西郷氏によって築城され、1524年松平清康が入城し、1542年の誕生以来28年間家康が居城とした城である。田中吉政と本多氏の時代に近世城郭として整備されたと考えられ、1617年に複合連結式で完成している。昭和34年には復興天守が建てられた。
畑さんのページ
岡崎City情報のページ
IBMホームタウン・ホームページ
従兄弟や両親の両親と一緒に行った旅行で訪れる。広大な敷地は岡崎公園となり、藤棚には花があふれていた。桜もたくさんあり、花見シーズンには人があふれていることだろう。天守などはあまり印象に無いが、石垣が多く残り、在りし日を偲ばせる。この旅行では関ヶ原合戦場跡にも行ったが、別に大した物ではなかった。(H5.5.4)
岡崎公園自体は非常に広く、その周りを川が流れていてそれが外堀なのは間違いなく、城郭自体も相当な規模だったのは容易に想像できるのだが、いかんせん曲輪が全く分からなくなってしまっているのが辛い。天守閣のある曲輪も神社やら何やら城と関係あるのかないのかわからないような建物に囲まれているため、本丸すらどこまでなのか判断しづらい。天守閣自体も確かに旧観に復元しているのだろうが、どちらかというと資料館としての位置づけの方が強そうな感じであった。で、肝心の展示物であるが、これは徳川三河武士の館というのが別にあり、それと合わせてそれなりに興味深い資料がそろっている。特に三河武士の館の方は周辺の小さな古城を紹介するコーナーがあったり、ビジュアル的に関ヶ原合戦を再現するコーナーがあったり、十分に楽しめるものになっていた。(H9.8.1)
吉田城 1505年に牧野古白により築かれ、桶狭間合戦後は家康の持ち城となった。1590年に入城した池田輝政が15万石の太守にふさわしい改修をということで石垣を用いた近世城郭となった。関ヶ原合戦後城主はめまぐるしく変わり、松平忠利の代に名古屋城築城の残石をもってさらに改修が加えられた。だが天守は築かれず、三重の鉄櫓が代用された。
どんどんタウンのページ
日本の城(中部地方)のページ
立派な石垣で囲まれた本丸があり、一角に櫓が現存している。ただ、その櫓には入れるわけでもなく、ちょっと物足りない印象を受けた。櫓のすぐ下には川が流れており、そちらの対岸から見るとまた違った風に見えるのかもしれない。城跡は広大な公園になっており、芝生が敷き詰められていて公園としては申し分ないものであろう。(H9.8.1)
長篠城(D) 日本の城(中部地方)のページ
本証寺城 日本の城(中部地方)のページ
設楽城
鎌倉
山城
どんどんタウンのページ

尾張(Yahoo!愛知西部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

名古屋城
近世
平城
〈東南隅櫓,西北隅櫓,西南隅櫓,表二の門,二の丸大手二の門,旧二の丸東二の門〉
1610年に、家康の四子松平忠吉の跡を継ぎ、清洲城主となった九子義直の居城という名目で家康が着工。実は豊臣方の拠点である大阪の押えとして急造された城である。大坂の陣ではその役割を果たし、工事中であった外郭・惣構えは戦後中止され、未完成のままである。現存する西北隅櫓は清洲城小天守を移築したもので清洲櫓とも呼ばれる。
公式ページ
愛知県の城と今月の名古屋城
名古屋城本丸御殿
日本の城(中部地方)のページ
畑さんのページ
なごや観光100選のページ
完全復元というだけあって本丸と二の丸はほぼ旧態を見ているような気分にさせてくれる。多聞櫓と本丸御殿、大手門があればもう完璧。本丸御殿は天守閣内部の展示で20分の1の模型があったがまさに圧巻。実物を非常に見たくなった。天守閣内部といえば、これまで行った城の中で名古屋城がもっとも充実していたと思われる。先述した本丸御殿の模型のほか、井戸、金の鯱の模型、空襲の直前に乃木将軍が避難させたために残ったという本丸御殿の天井絵や襖絵、などなど、どれも一見の価値あるものばかり。2、3、4階は改装中で見ることができなかったにもかかわらず非常に満足できるものだった。ただ唯一の問題は屋上展望台。単なるたくさん窓のついた部屋。あんなのは城ではない。
あと、有名な清正石や家紋の入った石垣も確かにすごい。当時の徳川家がいかに強い勢力を誇っていたかということがよく分かる。あれだけ多くの大名が一も二もなく普請を手伝うのでは豊臣も勝てないわけだ。それから、現存する3つの櫓はどれも中に入れてもらえない。一度見てみたいものである。(H9.1.31)
友達と名古屋方面に城巡りに来て、再度訪れた。前回来た時には入れなかった2,3,4階は改装工事が終わっていたため見る事が出来たが、全く大した物ではない。唯一すごいと思ったのは本丸御殿内部をCGで再現していたところであろうか。しかし本当に規模のでかい城である。それだけは再認識させられてしまった。(H9.9.2)
犬山城
戦国
平山城
《天守》
幻の現存最古の天守建築遺構であり、日本で唯一の個人所有の城である。天守建築時期は諸説あるが、下部は1537年に築城された金山城の天守閣を移築したもので、上部は江戸時代になってから増築されたというのが通説となっているが、まだはっきりとしてはいない。本丸を最北におき、眼下に木曽川が流れる典型的な「後堅固の城」である。
犬山市のページ
犬山市観光情報のページ
日本の城(中部地方)のページ
犬山市マルチメディア協議会のページ
イサイズ「じゃらん」
全く期待通りの城であった。木曽川縁からみる犬山城は格別のものがある。内部はまさに理想的で、心地よい木の匂いと必要最小限の展示物。唐破風や千鳥破風の部分の小部屋や、急な階段、頭を打ちそうな柱など、現代的でない部分が時代を感じさせ、本当に興味深かった。他にも、第二層目だったかにある武具庫は素晴らしかった。周りに武者走があって真ん中が武具庫になっているのだが、武具を置く棚などもあり、昔の様子を偲ぶにはもってこいであった。屋上からは優美な木曽川の流れが一望でき、まさに殿様気分。ただ一つだけ気になったのは屋上だけどうして赤い絨毯を敷いているのかという事である。これは意味がなく、やめるべきではないかと感じだ。ただ、全体として本当に素晴らしく、日本が誇ることのできる数少ない城郭の一つであるのは間違いない。(H9.8.31)
清洲城
戦国
平城
守護代・守護織田家の本拠地。1582年に信長が本能寺に倒れて後、織田信雄が城主となり、大小天守を持つ近世城郭に改修された。しかし名古屋城の築城が始まると石垣は転用され、天守を初め主要な建物は名古屋に移された。
日本の城(中部地方)のページ
はたぼうさんの日本名城案内
行ったのが5時過ぎだったため天守閣には入れなかったが、門の中には入れた。今回この城に来た一番の目的はあの天守閣は復元(正確には復興か?)なのか、模擬なのかが知りたかったからなのだが、係の人には一人も会わなかったため、知る術はなかった。名古屋城に移築されたということになってるけど、名古屋城では清洲櫓の説明に「清洲城の木材を多く使って作られた」と書かれているだけなので、はっきりとしたことはわからない。ともかく外観は犬山や安土を彷彿とさせるかっこいい城。また、実際に清洲城があったというところにも行ってみる。清洲公園(城周辺がそういう公園になってる)内にあって、ちょうど駐車場の横になるんだが、それもどうも納得できかねるものがある。その曲輪が天守閣を建てるにはちょっと小さすぎることと、石がコンクリートか何かで固められていることである。倒壊してしまったから固め直しただけなのかもしれないが・・・。(H9.1.31)
刈谷城(E)
戦国
平城
大高城(D)
小牧山城
戦国
山城(85m)
田原城
戦国
丘城
岩崎城

伊勢(Yahoo!三重北部)

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城名

由来・遺構・エピソードなど

桑名城(C)
近世
平城
鎌倉初期に桑名行綱がこの地に城塞を築いたのが初めだと言う。本格的に城郭を築いたのは1601年に10万石の大名として入封してきた本多忠勝だった。約十年をかけて櫓51,多聞46という巨大城郭を完成させた。その後松平氏が入り、最後の城主松平定貞(松平容保の弟)は戊辰戦争に際し新政府軍に反対し、函館に走ったため激しい砲撃を浴び、全焼の憂き目を見た。現在城跡は九華公園となり、堀や石垣が残っている。
桑名市のページ
日本の城(中部地方)のページ
川に面した九華公園というのが城跡に当たるらしい。何と言ったらいいのか、ちょうど扇形をした中洲があって、その弧に平行に2本堀を掘ったような形をしていて、運河みたい。その堀がきれいで、公園としては申し分ないと思う。ただ、石垣は四日市の港を作る時に使われたらしく全く残っておらず、50基以上もあったと言う櫓も一つも残っておらず、跡地も一つだけそれらしいものが認められるだけであとはただの丘になってしまっている。ああいう城の復元も見てみたいものだ。(H9.2.1)
神戸城(C・・・移築櫓・大手門あり)
近世
平城
1367年亀山城主関盛政の長男盛澄が神戸を分け与えられて神戸氏を称したのが始まりとされる。1567年に信長は滝川一益に伊勢を攻略させるが思うに任せず、信長の三男信孝を神戸氏の養子にすることを条件に和解した。信孝は1580年に拡張・整備を行い、本丸・二の丸などの郭と共に、小天守を伴う五層の天守閣を建てた。関が原の合戦後、神戸は天領となり、破却。のち1732年に本田忠統が再築城するも明治維新の際に破却された。
鈴鹿サーキットのページ
現在城跡は神戸公園となり、天守台や堀などが残る。ちなみに太鼓櫓は市内蓮花寺の鐘楼に、大手門は四日市市顕正寺の山門になっている。
ちょうど神戸高校が建っているところが神戸城跡地らしく、今は本丸の跡だけが学校の横にぽつんと残っている。野面積みの豪快な天守台がきれいに残っていてなかなか楽しめた。高校の逆側には神戸公園としてきれいに整備されていてそちらには少し内堀も保存され、公園側から見た天守台もなかなかのものだった。(H9.2.1)
亀山城
近世
平山城
多聞櫓が現存しているというので相当期待して行ったのだが、その櫓のある石垣以外は縄張りも全くと言っていいほど分からず、ちょっと拍子抜けであった。だがその石垣の高さは相当なもので、その上に現存する櫓も黒塗りの渋いもので、亀山中学校から見た景観はなかなか通好みといえるのではなかろうか。問題はその櫓の窓にアルミサッシの窓がはめ込まれている事。現存する建築物にそんな事をするのは実際許されるのか?少々疑問の残る城であった。櫓の下側には古城時代に城守として招聘された人物の家の門が残っており、また天守台もごく一部だが残っていた。正確には天守の代わりをした三重櫓の台であったらしいが、完全に公園の一部になってしまっており、面影は何ら見られなかった。ただ、その下には豊かに水を湛えた池があり、堀として機能していた事は明らか。こうした部分から在りし日の全体像を偲ぶのも古城巡りの楽しみ方の一つなのである。(H9.9.2)
津城
近世
平城
古くは長野氏の一族が築城したとも言われるが不明。
1568年に伊勢攻略を行っていた信長は長野氏の攻略にてこずり、弟の信包を長野氏の養子にすることを条件に和睦し、信包は1580年にこの地に五層の天守閣を持つ城郭を完成させた。1608年には伊予今治から藤堂高虎が入り、11年に東海道を押さえる政治色強い城として大改修を行った。本丸の北側を広げて三層櫓を3つ建てたほか、伊予からついてきた商人を城下町に住まわせて無税としたり伊勢神宮に向かう参宮街道を城下町に引き入れるなどして五百戸ほどに過ぎなかった城下町を生まれ変わらせた。明治に入り、櫓などは売られてしまったが昭和33年に三層の櫓が復興された。
日本の城(中部地方)のページ
三重県のページ
津市のページ
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大手門(があったとこ)をくぐると何と日本庭園が???。それを抜けると今度は洋風の公園に???その奥には復興櫓が。というなんとも不思議な城跡。解説を見てみると日本庭園があった所は西の丸で、公園が本丸跡。とはいえ藤堂高虎らしい立派な石垣ときっちりした曲輪割りがきれいに残っていてみていてわくわくしてくる。特に天守台とは逆側の櫓跡は多聞櫓部分を通って移動できるようになっていて、そこから見える堀はたまんない。ちなみに三層櫓が一つ復興されているがそれは完全に門があったところに建ってて意味不明。そういう城って結構あるけど、どうしてそんなことするんだろう。その後そこで写真を撮ってもらった人が大阪の人で、なかなか面白かった。そういえば天守台の上にはどうしても登れなかった。どうしてだろう?危ないからだろうか。それと、日本庭園の入り口には有造館(江戸時代後期に立てられた学習院らしい)の門が移築されて残ってあった。市指定史跡って書いてたけど、修理しすぎ。すごいきれいで全然重みが無かった。大した事無い。(H9.2.1)
松阪城(C)
近世
平山城
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思っていたよりも断然規模が大きく、圧倒された。建築物としては遺構は全く残っていないのだが、とにかく石垣が奇麗に残り、曲輪がはっきりと確認できる。北の大手口から入るのだが、そこから本丸にいたるまで二重三重に立派な石垣があり、特に直接本丸へと続く右に進む道は石垣を抜けては新たな石垣が現れるという感じで、実戦を考慮に入れた非常に重厚な作りになっているように感じた。なぜか二の丸で猿が飼われていたのが不可解ではあったが、それを抜けると連郭式の正方形の本丸が現れる。天守台はあまり高くなく、それも実践を重視している事の現われなのだろうか。結論としてはこの城は行く価値十分にあり。天守閣から一つ一つの櫓・門まで在りし日の姿を思い描けば、城郭とはいかなるものかが分かるのではないだろうか。ついでにというと失礼だが、ここは国学者本居宣長で有名な地であり、彼に関する建物も城内には多いのでそちらも見てみると面白いだろう。(H8.9.2)
大河内城(D)
戦国
山城
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長島城(B)
戦国
平城
上野城(D) 三重県上野市にある伊賀上野城とは別物です。本城山青少年公園として整備されて おり、展望台とちょっとした遺構がありました。展望台からの眺めはまあまあ良かっ たと思います。(三重県在住の市川さんのメールより)
霧山城(D) 山奥にある城で、さらに徒歩で苦労して急な石段を登りました。〜〜跡という説明書きと碑がありました。周りを見渡しても山ばかりですが眺めは良かったです。ちなみに最寄り駅で言えば、JR名松線比津駅になります。(三重県在住の市川さんのメールより)
山田城(笹尾城)(E) 地元の住宅地に多数ある公園の一つに、石碑と説明書だけがあります。自分はこの近所に十年以上住んでますが、知りませんでした。
町のHPと県の史跡案内HPの説明を適当にくっつけた文を記しておきます。「青木紀伊守安定が築城した中世城館で、別名「笹尾城」とも言います。中心部の規模は東西81メートル×南北35メートルで員弁雑誌によりますと、城主の青木駿河守安豊(あおき するがのかみ やすとよ)は、天正年間(1573年頃)あの織田信長に滅ぼされたと言われています。城址からは沢山の遺物が出土されました。 」(三重県在住の市川さんのメールより)
花戸城(花扇城・中上城)(E) だいたいここらへんにある。というのは調べて知っていたんですが、実際に探し出すのは苦労しました。農道に見落としそうな小さな案内板があり、さらに徒歩で山の中に入っていくと碑だけあります。ここの城主の末裔が開いた寺というのが現在もありますが、そことは少し離れています。
「中世城館の一つで、別名「花扇城」とも言います。規模は東西160メートル×南 北60メートルを誇り員弁雑誌によりますと、明応年間(1492〜1590)、坂太郎左衛 門(ばん たろうざえもん)が建城したと言われます。廃城の時期は不明ですが、 城主の坂家は敗戦の後、仏門に入り、蓮如上人に帰依し、中上に寺を建て、花戸山 遍崇寺として現在まで続いています。」(三重県在住の市川さんのメールより)
長深城(E) 寺の中に碑があります。この城の城主の末裔が開いた寺だそうです。 「中世城館の一つで、善正寺の境内がそれである。規模は東西88メートル×南北75 メートルで現在、土塁が残り、壇もあり、本丸・二之丸も推定されます。員弁雑誌 によりますと、暦応年間、冨永筑後守冨春が築城し、その後、冨継、冨輝、冨知と 継いだが、永禄11年(1568)に織田信長勢の夜討ちにより滅ぼされたといいます。 城主の一族が、城址に冨永山善正寺を天正9年(1581)に創設し、現在まで続いてい ます。」(三重県在住の市川さんのメールより)
大木城(D) 近所の人に聞いて「そんなとこに何しにいくんだ?」風な顔をされました。ここは 碑の奥の薮に入っていくと、石垣が少し残っていて驚きました。
「種村大蔵太夫高盛が築城した中世城館で、規模は東西45メートル×南北55メート ルを誇り員弁雑誌によりますと、永禄年中(1558〜1569)大木舎人(おおきとねり) が居城しましたが織田信長に降伏しその配下になったと言われています。その後天 正4年(1576)に滝川一益(たきかわ いちます)に不信感をもたれ大木舎人は西国 に落ち延びたため廃城になったと言われています。」(三重県在住の市川さんのメールより)
田丸城(C)
近世
山城

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鳥羽城(D)
戦国
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由来・遺構・エピソードなど

伊賀上野城
近世
平山城(184m)
伊賀の国は律令制度崩壊後京都や奈良に近いために荘園が多くの土地を占め、国内を統一するような土豪は生まれなかった。逆に小さな土豪同士の闘争のおかげで生まれたのが忍者であった。1581年に信長が伊賀に侵攻した時も小さな土豪が連合してゲリラ戦を挑み、散々てこずっている。
この城は1585年筒井順慶の養子である定次が大和郡山からこの地に移って築城したもので、定次は土豪の掃討に躍起になった。1608年豊臣氏との決戦を控えた家康は定次では頼りないと伊予今治から藤堂高虎を呼び寄せ、伊賀と伊勢の一部を与えた。高虎は津城を平和時の本拠、上野城を大阪城に備える戦闘時の本拠とし、特に西側の城郭を拡張・整備した。また高虎は伊賀の土豪を手なずけ、忍者を無足人として採用したと言われる。
高虎は五層の天守閣を建てたが完成間近の1612年に暴風雨で倒壊、15年に豊臣家が滅びてからは再建されなかったが、昭和十年には復興天守が建てられ、日本一高い石垣と共に大きな見所となっている。
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とりあえず天守閣に登ってみるが、その展示物は鎧兜の類ばかりで見るべき価値のあるものはほとんどない。ただ、内部をすべて木で復元してあり、それはすばらしいと思う。どうせ復元するんならああいう形にすべきだろう。で、この城のすごいのはやはり高石垣。日本一高い石垣で、下から見たらそうでもないかと思うんだけど、上から見下ろすとその高さに足がすくむ。いくら大阪への押さえとはいえそこまでしなくても・・・という感じだ。(H9.2.1)

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