蝦夷of日本のお城

蝦夷地(Yahoo!北海道

城名

由来・遺構・エピソードなど

桂ヶ岡チャシ(網走) 1000以上あるチャシの中でも内部に北筒式土器などが出土する集落を伴い、国指定史跡に指定されている。ニクル丘陵上にあり、大小2つの長円形、鏡餅状の郭が構築され、竪穴住居跡があり、貝塚もある。
シベチャリチャシ(静内) 1669年のシャクシャインの乱での居城となる。松前藩は武力強化を恐れ、シャクシャインを誘殺。その後チャシ一帯は藩兵と反乱兵との修羅場と化した。
白老チャシ
ハシナウシチャシ(室蘭) ハシナウシ岬にあり、空堀を隔てて南北に2つの郭が相対し、南の郭は長さ73メートル、深さ1.5メートル。
オンネモトチャシ(根室)
日本百名城:1
根室半島には一体に渡ってチャシ跡が存在。
モシリヤチャシ(釧路) 長径170,短径70メートルの楕円形をしていて内外2つの郭に分かれる。内郭は円形の丘を二つ重ねた形状をしていて、外郭には竪穴式住居がある。
鶴ヶ岱チャランケチャシ(釧路) 春採湖中に半島状に突出した小規模のチャシで、空堀を巡らし、上部は二段に築かれ、船着き場がある。
キウスチャシ かつて環状の土塁を巡らした5個の円形チャシがあり、3個と2個が連続しており、チャシの直径は30〜60メートルほどであったが、現在は破壊された。
神居古潭チャシ 半円形の直径20メートルほどのチャシ。竪穴住居跡があったが破壊されたものもある。
上ノ国館
大館城
志苔館(C)
室町
平山城
続日本百名城:101
中世の蝦夷地で和人が道南地域に築いた道南十二館の一つ。土塁で囲まれた本丸、周りには空堀が保存される。
帰り、函館空港に向かう途中で立ち寄る。あまり期待せずに行ったのだが、想定以上に遺構がきれいに残っており、期待以上の城跡だった。(R6.9.18)
松前城
近世
平山城
日本百名城:3
〈本丸御門〉
蠣崎慶広は1590年に安東氏支配を脱し、豊臣直臣大名となると共に松前氏を称した。1600年に築城を開始、1606年には一応の完成を見る。しかしこの城は1849年に廃され、対ロシアに備えて本格的城郭にするよう幕命を受け、藩主崇広は日本最後の和式築城で階郭式の城郭を築き、砲座、台場要塞も配した。天守は昭和21年まで残存し、現在復元されている。
函館見聞
20年前は断念した松前城、今回はレンタカーで何とか到達することができた。海沿いの道路から見える津軽海峡はすごい綺麗なところもあれば、すごい大荒れのところもあり、函館中心部から2時間ほどかかったが、一瞬に感じた。途中の道の駅も非常に良くて、大量の買い物をしてしまった。
松前までは道路沿いにレストランや売店はかなり少ないのだが、松前の町に入ると、城下町の雰囲気で、いい感じの店が登場する。さらに奥に進むと、お城がある。北海道に本当に日本的な城郭がある。海沿いの道を入ってすぐにあるので、本当に海に面した城である。そうであるが故か、駐車場に車を停めて、一番に目に入ってきたのは一部風化した石垣。石垣の中の1/20〜30くらいが少しへこんでいるというか、風化が進んだ状態になっている。風化に弱い種類の石を使ったということなのだろうか。その続きに搦め手二ノ門があり、その向かいに事務所兼入り口がある、といった感じ。大手門の方にも行ってみたが、そこが大手門とも書いておらず、そのまま裏手にしか行けないようになっている。有料区域と区切るためなのだろうが、城というのは大手門から順番に門をくぐって、本丸に行かないと縄張りの意図とかが理解できないと思う。幸い周りはさほど宅地化が進んでおらず、広域に城跡が残っているのにもったいないなぁと感じた。
入り口で入場料を払うと、何と地下道に案内される。コンクリートでできた地下道を歩いていくと、そのままコンクリートでできた天守地下一階につながっている。コンクリートでできている天守だけでも十分興ざめなのに、地下道って・・・。元あった天守は、戦争の戦火を潜り抜け、昭和24年まで現存していたのだという。役場火災の飛び火によって焼失してしまったということだが、本当に悔やまれる。本丸御門はそこで延焼せず、現存しているということらしい。是非とも末永く管理してほしいものである。
全般的に言うと、海沿いにある立地や広範囲にある石垣など、見るべきものは多いが、とにかく地下道から始まる天守が残念過ぎる。それでも北海道唯一の近代和式城郭。行く価値はあると思う。(R6.9.18)
四稜郭(D) 五稜郭を巡る稜堡要塞群の一つ。大島圭介の設計と言われる。その名の通り、70×27メートルの四辺形で、四隅の堡頭が出っ張る形で虎口は南方に小桝形で形成される。岡山・徳山両藩兵の攻撃で陥落。
五稜郭(C)
近世
平城
日本百名城:2
1854年神奈川条約により函館開港となり、幕府は亀田塁としてパリ城塞都市に倣った築城を起こした。工事は1864年に一応完成する。榎本孝明が蝦夷共和国を宣言したのもこの城であるが、稜堡であるにもかかわらず、日本式の壮大な主殿を作り、司令部としたため、この巨大な木造建築に放火が集中、落城を早めることとなった。
五稜郭タワー
HINET
夏休みを利用して、北海道旅行に出かける。この日は函館を経由して松前城に行って、その後五稜郭に行く予定だったのだが、北海道は思った以上に広く、松前に行く時間がなくなってしまったのだ。
しかし五稜郭って、お城というよりは近代的な基地というようなイメージを持っていたのだが、とんでもない。江戸時代に作られたものであることは間違いなく、疑いようもない城そのもの。大きな本丸があり、内堀を星型に作ったという感じ。形は近代的なだけに、前近代的な石垣が非常にミスマッチで面白かった。というか、五稜郭タワーにも登って眺めてみたのだが、どうしても星型の意味が理解できない。文献を調べてみよう!(H12.9.3)
20年ぶりの五稜郭。幕末に開港するにあたって、外国人に恥ずかしくない奉行所を置く拠点として、ヨーロッパで発達していた星形にしたということらしい。元々幕府が作った拠点が、一旦新政府に引き継がれ、その後旧幕府軍に奪い返され、さらに新政府軍に攻め落とされる。いずれも、星形を十分に活用できたとは思えない。でもそれが妙に趣深い。新しいものを古いもので作った感というか、石垣とかは切石積みの新しい積み方ではあるものの、完全に江戸時代の石垣。馬出し風の領域もある。でも馬出しを超えるといきなり本丸という作りなので、正直守りやすいとは思えない。そういう時代錯誤感が漂っていて、非常に趣深い。
そして、前に来た時にはなかった奉行所が復元されている。それも木造で。新しい感じが残念ではあったが、やはり木で復元しているのは素晴らしい。
全般的に言うと、既述内容と逆のようだが、正直ワクワクはしなかった。日本の城独特の香りはプンプン匂ってはいるが、星形がやはり日本的ではないのである。これも日本の歴史の一部ではあるのだが・・・(R6.9.17)
戸切地
弁天岬

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