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城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
小倉城 近世 海城 |
細川忠興により1602年に着工、7年もの歳月をかけて築城された海城である。海水により本丸・二の丸・三之丸・松の丸が分けられ、各曲輪にあがった櫓は48基を数えた。今日の復興天守には大入母屋と破風がつけられているが、旧観は全く破風のないシンプルなものであった。 *お城の旅日記 思った以上に大規模な城跡だった。特に天守。天守台の石垣の高さと堀の広さは相当なもので、そこに建てられている模擬天守もかなり大規模であり、城らしいイメージが良く演出できていて、かなり圧倒される。 そこでは一瞬、心を動かされたが、あとは全くの幻滅だった。まず本丸に入ると、どこまでが本物の石垣かが全く分からない石垣と、お仕着せの石畳が敷かれてある。天守の中に入ると、ほとんどがつまらない展示物で、コンクリート作りの割にはエレベーターも付いていない。そして極めつけが、本来あった天守は破風の全くないシンプルな天守だったと言う。破風の全く無い作りを、「唐造り」と呼んだと言うことで有名な城なのだが、今や模擬天守の最上階が少し面積が広くなっている造りのことを言うと思い込んでいる人が大勢いたし、そう思わせようとする説明がたくさんあった。 帰りに、庭園とやらにも寄ってみたが、回遊式庭園なのに回遊できないように仕切られているし、「大名屋敷」というよく分からないものがあったり、行く価値は全くない。外国の方の姿もたくさん見たが、城がこんなものだと思って帰国していただきたくは無いものだ。(H17.4.10) |
中津城 | 黒田孝高が築城し、細川忠興が完成させ、江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた日本三大水城(今治・高松)の一つ。 *公式ページ |
長岩城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
福岡城 日本百名城:85 |
〈南丸多聞櫓〉 黒田如水・長政父子が1601年から7年もの歳月をかけて築いた名城である。52万石の居城にふさわしく、打ち込みハギ石垣で固めた本丸を中心として24万平方mの面積を城郭とした。大小天守台石垣が残るが、天守は建てられず、その代わりに47基の櫓が並んだ。 *福岡城むかし探訪館 *福岡城さくらまつり 地下鉄「大濠公園」駅を降りると目の前が城跡だった。まずかなり広い堀の向こうに大手櫓が見える。ワクワクしながら向かうと、大手門があったところがフェンスで封鎖されている。なのに何ら説明が無い。 釈然としないながらも公園をブラブラしていると、名島門があった。名島城の数少ない遺構だそうだ。正直あまり城の門らしくない、らしくないあたりが本物の所以なのだろう。 そのまま道沿いに歩くと、本丸の高石垣が見えてきた。入口付近まで来ると何故か大勢の人。出店もたくさん出ている。よくよく考えると、福岡城は桜の名所なのである。実はかなりの雨だったのだが、この中でかなりの人が花見をしていた。本丸の敷地に入ると、確かに広大な敷地に大量の桜が満開である。そして相当の石垣が現存している。非常に興味深い城だったのだが、大雨だったのがやはりきつかった。靴は泥だらけになるし、写真を撮るにも雨だとなかなか思うに任せない。こういう城は晴れた日に、できればあまり人のいない時に、ゆっくり回りたいものである。 ところで、天守台の造りが非常に興味深かった。石垣では、天守台に登る階段がどこにも無いのである。もちろん天守台には登れるようになっているし、展望台としての役割があって特にこの時期は天守台に大勢の人が登っていたが、その階段は鉄の階段が後付けされたものだ。小天守等の建物の中で階段を登ったのだろう。天守台もかなりの広さがあり、どんな天守を建てようとしていたのか、想像するだけでも興味深い。その天守台だが、展望台としての役割が強く、鉄板が敷き詰められ、落ちないようにフェンスが設置されている。安全確保のためには仕方ないんだろうが、どうしても心からは納得できないものが残った。 それでもかなりよい城跡であることは間違いない。今度は晴れた日にゆっくりと再訪したいと思う。(H17.4.10) 夕方からだったから暗くなるまで散歩しようと思って再訪。花見シーズンではなかったので人はほぼおらず、じっくり見学することができた。1時間以上かけてぐるぐる城内を回って、地下鉄大濠公園駅に向かっていた時、ライトアップされた櫓門と櫓が・・・前回も全く気付いておらず。見てみると潮見櫓を移築してきたもののようで、本当はそこにあった櫓ではないらしい。若干言葉は悪いが、要するに車の通る道からお城らしい風景を作りだすために作られたフェイクである。江戸・大阪・名古屋などと比べると櫓も残存が少なく、現存する櫓も内側になっていて外からは見えにくい。気持ちは分からなくもないが、復元等を行うのであれば、とにかく史実に忠実に、を大原則にやってもらいたいものである。(H27.1.30) |
大野城 古代 山城(410m) 日本百名城:86 |
665年に、基肄城と共に太宰府背後の守りとして築城された。大宰府の詰めの城として、大野山山頂から谷を囲み、周囲6キロに渡って土塁を巡らした。谷筋は石垣で固められ、水門が開けられ、とりわけ百聞石垣はよく保存されている。 *筑紫女学園・筑紫女学園短期大学のページ |
岩屋城 戦国 山城 |
高橋紹運によって大野城前方に築かれた城で、よく島津家との激戦地となった。 |
秋月城 | 1623年、黒田長政の遺命により、三男長興に五万石が分与され、秋月藩が成立。長興は、翌年陣屋形式として秋月城を整備した。城内は表御殿と奥御殿の二つに分かれ、背後に山、前面に堀・石垣・櫓を設け、出入口は前面の二ヶ所のみ。 *朝倉市 *お城の旅日記 甘木駅からバスで約20分、郷土館前というバス停を降りて、城に向かう道に入ったところ、まっすぐに伸びる一本道の両側に桜並木と古い屋敷が並んでいて、まさにタイムスリップしてきたかのよう。すぐ後ろには山が迫り、清流が流れ、つい10日ほど前にすぐ近くで大雨による氾濫があったとは思えないのどかさだった。なのに観光客は最初一人だけ、1時間ほどぶらぶらしていて2〜3人はすれ違ったが、本当に少なかった。確かになかなか来づらい場所だとは思うが、こんなに雰囲気のいいところに花見シーズンしか人が来ないというのは少々残念な気がする。 200メートルほど歩くと城跡に辿り着いた。城跡は秋月中学校の敷地になっており、中学校のわきに黒門と長屋門が残っている。有名なのは長屋門の方で、周りの石垣と共に、よい雰囲気を醸し出している。長屋門の奥には奥御殿があったとされる広場がある。(表御殿は中学校敷地)堀も残っているのだが、陣屋形式ということもあって、残念ながら城を全体として往時を偲ぶのは難しい。ただ、これも城の形態の一つであり、また周りの雰囲気がよく残っているという点で、周りを含めて楽しむべき城なのだと思う。(H29.7.15) |
岩石城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
久留米城 | 有馬豊氏の居城。往時には二層と三層の七つの櫓があった大規模な城郭だった。 *攻城団 西鉄久留米駅からバスで約20分、何の根拠もなく小さな城跡のイメージで行ったのだが、思った以上に規模が大きくて驚いた。石垣が非常に広範囲に残り、雰囲気を十分に味わうことができた。城跡にはよくあることではあるが、何となく周りから隔離された感覚があって、折角の遺構をもう少し何かに活かせないものかと感じた。(H29.7.15) |
柳川城 | *立花宗茂と柳川 西鉄柳川駅に着いたら、川下りの営業攻勢を振り切り、まずはせいろ蒸しを食べに本吉屋へ。せいろ蒸しの元祖らしく、由緒ある佇まいで、一人で入るには若干の勇気が必要だったが、折角来たし。結論、ものすごい旨かった。うなぎはふっくらとしていながら香ばしく、ごはんもちょうどいい硬さでペロリと食べてしまった。 そこから歩くこと20分、町中に水郷があって、歩いてて非常に楽しい街でワクワクしながら本丸に向かう。ところが、本丸までたどり着いたら、本丸には中学校、二ノ丸には高校がほぼ全面的にあって、お城の雰囲気は皆無。中学校の敷地の一部に少しだけ礎石のようなものと石垣が残っているのみで、何とも拍子抜けだった。まぁでも街全体がお城ということなのだろう。実際非常に情緒あふれる雰囲気で、のんびりと訪れるには良い街だと思う。(H29.7.15) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
大分城(府内城) 近世 平城 日本百名城:94 |
今も県庁所在地である事からも分かるように政治的・経済的・軍事的に非常に重要な位置にあり、大友氏の領土経営の中心地であった。大友氏は西山を本拠とし、1597年に福原直政が港を取り込むように改築をした時に今の位置に移った。関が原合戦後に入部した竹中重利が加藤清正の助力を得て完成し、天守は四重大天守を中心とした連立式で、櫓は二十五基を数えたという。遺構としては人質西櫓・宗門櫓・塀が現存、大手門・東丸着到櫓などが再建された。 大分県庁と大分市役所のすぐ隣に立派な櫓が見えてくる。夜に行ったのだが、城門は閉じられていなかったので入ってみると、中は広場になっていて、半面は何かイベントで使っていて入れなかった。天守台にも登れたが、どこから行けばいいかの表示もなく、途中の道も天守台も草が生い茂り、およそ観光地としての体を成していなかった。危険だからということなのだろうが、天守台には緑のフェンスが囲んでいるし。整備し過ぎるのであればこのままでもいいが、都会の真ん中にこれだけの遺構があるのにもったいないと思うのは私だけではなかろう。櫓の中に入れるようにするなど、いろいろと工夫してほしいものである。(H27.10.1) |
杵築城(きつき) | 1394年木付氏が木付城を築城、1645年には松平氏が入る。1712年の朱印状に『杵築』と書かれていたことから、以後杵築城と呼ばれることとなったと言われる。 河口に面した台地に天守閣がそびえるが、そこは模擬天守の悲しさで、見るからに趣が薄い。中に入ってもコンクリートで、いくつか展示があるものの、さほど興味も湧かず、一瞬で出てきてしまった。正直入場料の価値は全くない。対して、城下町は非常に興味深かった。両側の台地に武家屋敷、谷部分に商家が建ち並び、城下町を形成しているのだ。武家屋敷は一部中を見ることができるので、大原邸に入ってみた。立派な回遊式庭園を備えた立派なお屋敷だった。商家も昔から続く味噌やお茶などのお店が並び、その坂と共に情緒溢れる街並みだった。こちらは訪問の価値ありである。(H27.10.2) |
日出城(ひじ) | 1601年秀吉の正室ねねの兄の息子、木下延俊によって築かれた。義理の兄である細川忠興による縄張り。城内は現在日出小学校になっているが、2009年、移築保存されていた鬼門櫓が城内に移築され、内部を観覧することができる。 *ひじナビ 小規模ながら石垣がよく残り、好感が持てる城だった。小学校等に転用されている場合、石垣等の遺構に手が加わっていることが疑われることが多いが、小学校と城跡が共存している印象だ。海に面していて、その面でもすがすがしい。鬼門櫓は本来あった場所に移築できず、本丸の石垣の外に移築されていて、城郭建築としては違和感がないとは言えないが、まず現存していて内部を観覧できるのは本当に素晴らしい。そこで受付をしている方は非常に気さくな方で、興味深い話をいろいろとしていただいた。鬼門櫓は廃城令の時に棄却を免れ、ずっと住居として使用されていたそうで、柱には子供が身長を測った跡が残っていたり、建物の一角が欠けた構造になっていて、そもそも城の鬼門に立てられたから鬼門櫓なのだが、その櫓の中の最も鬼門方向の角を欠けさせていて、全国的にも珍しいと話してくれた。城好きにはたまらない城だと思う。(H27.10.2) |
臼杵城 | |
岡城 近代 山城(325m) 日本百名城:95 |
1185年、緒方惟栄が源義経を迎えるために築城したのが最初と伝えられる。1586年には島津の大軍に対して、18歳の志賀親次が城を守り、善戦したことに対して秀吉から感状を与えられたとも伝わる。現在の城跡は1594年に入国した中川秀成が近世城郭の整備を行ったものである。 「荒城の月」(滝廉太郎)のモデルになった城としても有名。 *竹田市教育委員会 是非とも一度行ってみたくて立ち寄った。車を駐車場に停めると上に石垣が見え、その時点で相当テンションが上がったのだが、受付で入場料を払ったらもらえるパンフレットが巻物風になっていて、素晴らしい演出だと思った。巻物を伸ばして見ながら山を登っていくと、大手門があり、家老屋敷などの屋敷跡があるのだが、屋敷跡ぞれぞれに石垣が組まれていて、それがそのまま残っている。山城で廃城令まできちんと使われていた城は数少なく、屋敷跡ごとに石垣がこれだけ残っている城は初めてかもしれない。その奥に行くと太鼓櫓、三の丸、二の丸、本丸と続くのだが、特に太鼓櫓の少し手前から見た二の丸の石垣の絵は本当に素晴らしい。周辺が森林のままだから、かつての景色もそうだったのだろうと思える景色がそこにある。また、二の丸から谷を隔てた向こう側に見える石垣もまた素晴らしい。一瞬別の城かと思うが、西の丸の一部が見えている。それだけ広大な敷地に、石垣が良好な状態で保存されているのだ。その後西の丸に行ってみて広大な敷地にまた驚いた。江戸時代後期には西の丸が城の中心になったらしい。西の丸の一角には二の丸から見えた家老屋敷跡などがあるが、こちらには礎石を元に建物の床部分を再現されていて、これまた興味深い。帰りは近戸門という裏門から出て、駐車場まで下りたのだが、そちらの道もよく整備されているが、され過ぎていない感じがとても心地よかった。 建物の遺構は何もないが、石垣が非常に良く残り、城郭全体がほぼ完全に把握できる全国でも数少ない山城だと思う。観光客はかなり少なかったが、訪れる価値は非常に高い城であることは間違いない。(H27.10.2) |
佐伯城 近世 山城(140m) |
1602年から四年をかけて毛利高政によって八幡山に築城された。当時は三重天守、7基の櫓、3期の櫓門などが建てられたが、三代高尚の代に山城では城下町経営に不便だという事で麓に三之丸居館を構え、実質的にそこで政務を執った。今日、三之丸櫓門が現存するが、それはこの居館の正門に当たるものである。 *ハローねっとジャパンのページ |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
名護屋城 近世 山城(90m) 日本百名城:87 |
豊臣秀吉による朝鮮出兵の拠点として一大軍事都市を形成。文禄の出兵の際には渡海勢158000人、留守勢101000人を支えた。五層の華麗な望楼型天守と殿舎群、それに二重層は10基以上あったという。 *佐賀県のページ *佐賀県立博物館のページ *唐津コンピュータ専門学校の特集ページ 唐津からレンタカーで約30分というところだろうか。石垣は相当ぼろぼろになってきているし、木はずいぶんと覆ってきている。だが、その広大な敷地と壱岐・対馬を容易に眺め渡せる高台と地形は、十分に往時の戦略的考え方とその立派な城郭郡を想像させる。もちろんその立派さは想像に難くないのだが、野面積の石垣や簡易な縄張りは急造城郭であったことがわかり、興味深い。あの小田原城攻めの石垣山一夜城と雰囲気が妙に似ているのはそのためだろう。 なぜかバスツアーの観光客が多くてびっくりした。興味のない人がこれを見てもどこまでわかり、どこまで感動できるものなのか。本当に想像力豊かな人に行ってほしい城である。(H10.7.12) |
佐賀城 日本百名城:89 |
〈鯱の門及び続櫓〉 1599年鍋島直重が着工し、本丸は総石垣作りで五重の天守があがった。天守台石垣と鯱の門、番所が残る。 *佐賀城本丸歴史館のページ 福岡から特急で40分、意外と近い。駅からすぐかと思い歩いたらかなり遠かった。堀らしきものを渡るとそこは城内なはずなのだが、県庁や図書館などがあり、お城がなかなか現れない。佐賀テレビを抜けると、ようやく石垣が見えてきた。 まず正面入り口になっている櫓門「鯱の門」、文句なしに素晴らしい。感嘆しながら中に入ると、本丸御殿がドーン!最近一部の城跡で本末御殿が再建されたりしているが、まだまだ少数派。本丸に御殿建築があると不思議とテンションが上がる。10年前にできたところであり、全体的にきれいすぎる感はあったが、すべて木造で復元されていて木の香りの心地よさ、また外御書院の広さ、御小書院に渡る通路の狭さ、すべてとても好感が持てた。大広間では生け花の展示会のようなものが開かれていて、そういう活用の仕方も非常に良いと思う。そして何より、最も奥にある「御座間」、なんと門と同様、天保期から現存しているのだそうで、感動せずにはいられなかった。御座間は藩主が日常生活をしていた場所にあたるということなので、床の間を背に、胡坐をかいて一瞬藩主気分を味わったり、御殿建築を満喫した。 ただ残念ながら東京に帰る飛行機の時間が迫っている。後ろ髪を引かれながら出口に向かう。入館料は取らない代わり、寄付をしてくださいとある。少し悩んで、1,000円札を一枚入れた。もう少し入れてもよかったかな。それ位の価値はあったと思う。御殿を出て、駅に向かおうとしたのだが、どうしても天守台が気になる。行けそうなのに行く道が見つからない。ウロウロしていたら外側からそっと道があった。来る時に通ったはずなのだが、見落としていたらしい。趣のある石垣を見ながら石段を登り、天守台から御殿を眺め、満足して帰路についたのであった。 ここまで書いて、追記する必要も感じないが、とにかく期待を大きく上回る城跡であった。御殿建築としては高知城、二条城二の丸、川越城、と並ぶものだと思う。名古屋城にもぜひ近い内に行ってみたいものだ。(H27.1.31) |
吉野ヶ里遺跡 日本百名城:88 |
弥生時代に国内最大級の環濠集落があったとされる。これを城と呼ぶかどうかは意見が分かれるところだが、空堀・土塁・逆茂木・物見やぐらなど、城のルーツともいうべきものである。 *吉野ケ里歴史公園 吉野ヶ里公園駅から結構離れていて、20分ほど歩いただろうか、到着したが、まだオープン前のため、近くのマクドナルドで朝食を済ませる。ほぼ一番で入場したせいもあるが、人はまばら。広大な敷地が4つのゾーンに分けられており、物見櫓、竪穴住居、巨大な祭殿などが復元されている。見るべきものは非常に多いが、あまりにも古いものを復元しているため、すべてが作りものに見えてしまって、少し冷めてしまった。とはいえ、間違いなく一見の価値はある。(H27.1.31) |
基肄城(きい)=基山城 | この城の初見は日本書紀天智天皇四年の条であり、この年665年に大和朝廷は太宰府背後の守りとして大野城と当城を百済からの帰化人に築かせた。そのため、朝鮮式山城であり、古代の技術を目の当たりにできる。 *佐賀県のページ |
島原城 近世 平城 日本百名城:91 |
1618年から松倉重政により8年もの歳月をかけて建てられた城で、外様大名が割拠する九州に徳川譜代の大名がその押えとして築いた城であった。築城工事には延べ100万人の領民と、旧領主有馬氏の居城日之江城と原城の石垣を転用した。重政の子勝家の代になり、領民は圧政に抗して一揆を起こし、島原の乱となった。今日、層塔式天守や隅櫓三基が復興されている。層塔式天守は破風等が全くなく、のっぺりした印象を受けるが、非常に珍しいものであり、一見の価値がある。 *島原城のページ 正直に言って、度肝を抜かれた。一揆軍の猛攻をしのいだとか、破風等のない層塔式天守とか、事前知識は持っていたし、とはいっても数万石の大名の城ではそれなりの規模だと思っていた。ところがである、本当に圧倒された。まず堀が広い、石垣が高い、本丸と二の丸がほぼそのまま残っていて、それぞれに面積が広い。面積が広くて石垣が高いということは、石垣も相当な範囲で残っているということである。はっきり言って、政令指定都市クラスの都市に残っている城に近いレベルではないか。九州なら熊本・福岡に並ぶとも劣らないと思う。島原駅を出ると正面すぐ近くに城が見えて、そこからはその大きさが分からないのだが、近づいてみるとまず堀の大きさに、石垣の高さに驚かされる。そして入口が逆側なので、堀の周りをぐるっと半周するのだが、それもまたかなりの距離がある。 ところが、入口が車道なのである。堀に橋があるわけではなく、車道になっていて、そこを入ると、天守の下が駐車場になっている。堀や石垣は全般的に良く保存しているのに、車道を作るのに堀を埋めたのだろうか。車道を作らないと人があまり入ってこれないので、やむをえず、ということだろうか。堀と石垣に感動してからなので、その落差たるや。とはいえ、天守は在りし日の通り破風等のない層塔式天守を再現している。日本の城には破風がつきもので、破風がそのカッコよさに繋がっているところがあって、再建する時には模擬天守とすることも選択肢にはあったのではないかと思うが、史実に基づいて外観復元しているのは素晴らしいと思う。 天守に入ってみた。入口ではなぜか武将の恰好をした女の子が迎えてくれる。中はコンクリート城特有のにおいが充満し、盛り上がる感じでないのは事実だったが、展示物は思いの外だった。鎧や刀がそれぞれ10個ほどずらっと並び、それはそれで壮観だったし、この城の特徴でもあるキリシタン系の展示も充実していた。 他の再建された櫓もいろんな展示があるようだったが、正直あまり興味が湧かなかったので、城内をウロウロしてみたところ、「島原駅への近道」というような表示が。そこに沿って細い道を行くと、大手口に出た。大手口にありがちな大きな石もある。そこには桝形もあったらしい。二の丸に続く橋もある。こういうのを見たかったのだが、危うく見逃すところだった。なかなか一般受けはしないのだろうが、単なる近道扱いはどうかと思った。逆にみんなが気付いていないところを見れる醍醐味はあるかもしれないが。驚くのは、その周辺の堀が田んぼになっていること。二の丸の堀はほとんどそうなのだが、稲が植えられているのだ。 いろいろ書いたが、総合的には行く価値が大いにある城と思う。とにかく堀と石垣が素晴らしい。地元の方には申し訳ないが、これだけの田舎だからこそここまで保存できたということなのかも知れない。(H28.6.29) |
原城 | 言うまでもなく島原の乱において一揆軍が篭った城である。現在では空掘りがよく残り、本丸が公園になっている。 |
平戸城 日本百名城:90 |
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唐津城 近世 平山城(43m) |
*唐津市文化事業団 唐津市内の海に面したところに天守閣があり、市内のど真ん中には櫓跡があり、唐津市がすべて城だったという事がよくわかる。城の左右に東の浜(虹ノ松原)、西の浜海水浴場があり、砂浜が広がっているが、それを翼に見立てて別名舞鶴城とも呼ばれる非常に美しい城である。ただ、中に入るとやはりそれは復元のお城の悲しさで、大した物は全くと言っていいほどない。外見も綺麗過ぎてどうもおもちゃみたいなのが気になるが、夜にライトアップされて浮かび上がる天守閣は非常に素晴らしい。 ところで、前日の夕食に行った唐津市内の「十六夜」で食べたイカの活造りコースは本当においしかった。2,800円であれだけのものを食べられたら大満足だろう。間違いなくお勧めである。(H10.7.12) |
鹿島城 | |
諫早城 | 南北朝期に伊佐早氏、戦国期西郷氏、江戸期には鍋島家臣の諫早(龍造寺)氏、が治め、明治に至る。現在は公園として整備されている。 島原鉄道を本諫早で降りて城に向かう。公園の入口には本明川から移築されたという眼鏡橋が保存されていた。貴重なものらしく、国指定重要文化財なのだそうだ。折角なので橋を渡って、そこから階段を登っていくと桜馬場、高矢倉、本丸と曲輪の跡が残っている。もちろん、公園として整備されていて城跡の雰囲気はさほどではないが、本丸はかなり大きなスペースになっていて、在りし日を偲ぶことができた。(H28.6.29) |
日野江城 | 有馬氏の居城。 |
石田城(B) | 長崎からフェリーで約4時間半、福江港から歩いてすぐにある城跡。遺構としては石田門、石垣、堀などであるが、城跡の隣には藩主五島氏の庭園があり、その隅には城内からの抜け穴も残っている。港内波止場の対岸には常灯鼻(昔の灯台)もある。【岩井さんのメールより(千葉県在住)】 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
熊本城 近世 平山城 日本百名城:92 |
〈宇土櫓,東十八間櫓,北十八間櫓,五間櫓,四間櫓,七間櫓,十四間櫓,田子櫓,源之進櫓,不開門,平櫓,監物櫓,長塀〉 言うまでもなく加藤清正による天下一の名城である。三層五階づくりの櫓が天守の他に六基もあった。1608年に築城された当時、櫓は48基あったという。現存するのは13基の櫓と2棟の城門、長塀など。 *熊本市 *学会サポートセンター *熊本国府高等学校 *肥後国見聞録 *熊本大学のページ *岡崎さんのページ ただただ素晴らしいというしかない。広大な敷地に、よく組まれた縄張り。高い石垣がよく残り、何といってもあの黒塗りの外壁は勇壮そのものである。まぁ例のごとく復元天守の内部は大した事はなく、屋上から城の縄張りを楽しむ以外にはない。で、そこから正面に見える宇土櫓。こちらが本当に素晴らしい。宇土城から移築したといわれることからこの名前があるが、どうもそうではなく、熊本城建築時に作られたものらしいのだが、これが建築当時のまま綺麗に残っていて、見る価値は大。櫓というと小さな建物をイメージするだろうが、これは五階建ての立派なもの。そのまま天守としても十分通用する。これが小天守ではなく、櫓であるところがこの城のすごいところだろう。内部はもちろん木のにおいが心地よく、重厚なイメージどおり。観光客が天守にばかり行くのが本当に歯痒い。ほぼ完全に残っている高石垣など他にも感動する要因は多くあったのだが、この櫓でもう完全に満足してしまった。わざわざ行くだけのものを見せてくれる城といえるだろう。(H10.7.10)
20年ぶりの熊本城。震災で被災して、石垣の一部が崩れたままで、一部の塀や櫓は傾いたままの状態であり、城地の中に入ることは叶わなかったが、外を一周することが出来た。まず誤解無いように書いておくが、大半の石垣は大地震でも堅固に残っている。自分自身そうだろうとは思っていたが、報道を見ていると崩壊した石垣ばかり映すので、少し不安だった面もあった。実際に行ってみると、おそらく95%程度の石垣はそのままである。とはいっても、城地があまりに広く、また石垣を多用した城郭であるため、残りの5%でも相当のボリュームであることは間違いない。三の丸を始め、いくつかの場所に、崩落した石垣が、裏に番号を記入された状態で保管されていた。完全復旧には時間がかかると思うが、是非とも早期に実現してほしいものである。 前回は営業時間外でできなかったが、復興城主に申し込んだ。ささやかではあるが、一日も早く、以前の姿に復興してもらいたい。(H30.8.23) |
宇土城 | 1588年、小西行長が肥後南半分の領主となり、宇土城の築城を開始したが、文禄・慶長の役、関ケ原合戦を経て処刑されることとなる。その後、加藤清正が自身の隠居所とするために改修を開始したものの、1611年に病死、幕命により破却された。今、石垣と空堀の一部が残るが、これは加藤時代のものであり、小西時代の遺構はすべて地下に埋め込まれている。 宇土駅から歩いたら想像以上に遠かった。ちょうど夏祭りの最中だったようで、出店が道に並んでいた。1時間弱歩いて、ようやく宇土中学・高校に到着、その裏手に宇土城山公園があった。石垣が一部残っていたが、高さがあまりない。本来はもっと高い石垣だったが、半分以上埋まっているようだった。そして、その上が公園として整備されていて、小西行長の銅像が立っていた。千畳敷とあったが、これが本丸にあたり、かなり広い。犬の散歩に来ている人もいて、地域住民に馴染んでいるようだった。公園化しているひっそり系の城跡の内の一つだが、石垣も残り、往時を偲ぶことが十分にできる城跡だと思う。(H30.8.24) |
宇土古城 | 小西行長が建てた宇土城と区別するため、中世宇土城などとも呼ばれる。1048年に築城され、宇土荘の荘官だった宇土氏や、守護職であった菊池氏がこの城を巡って争った。近世宇土城が建てられるまで存続したとみられる。 山の中腹に、丘があり、階段を登ると空堀と門があり、その奥に本丸らしき広場がある。空堀も門周辺も、土っぽいコンクリートで固めてあり、中世の城の雰囲気を出そうとしていることはよく伝わってきた。ただ、コンクリートで固めているのは、どうしても無理やり感は否めない。(H30.8.24) |
八代城 近世 平城 |
加藤清正の子忠広が元和の大地震で崩壊した麦島城の代わりに築城した城である。熊本城と同一の技法が使われた石垣の上には五重六階の大天守、二重三階の小天守が建てられていた。現在では本丸石垣のみ残るが、かつては二の丸・三之丸・北の丸・出丸などからなり、今日のほぼ市街地一帯に相当する広さであった。 日没寸前だったので、八代駅からタクシーを飛ばしてやってきた。市役所の横にドーンと鎮座していて、堀と石垣がほぼ完全な形で残っている。また、想像以上に大規模な城で驚いた。内部には八代宮という神社があるが、天守台にまで行くことができ、地下一階部分がある天守台と渡り廊下を通じて繋がっていた小天守との関係性などが手に取るように分かる。しかし、あの熊本城を擁しながら、これだけの城を持つことを幕府はなぜ許したのだろう。薩摩の島津家への押さえの為ということなのだろうか、いろいろと考えさせられる名城だと思う。(H30.8.23) |
人吉城 日本百名城:93 |
1198年、地頭となった相良長頼が城主となり、築城されたと伝えられる。その際、三日月の文様のある石が出土したため、別名を三日月城あるいは繊月城と言う。室町時代、戦国大名として領土の拡大を図るが、1587年の豊臣秀吉の九州征伐により、相良氏は球磨郡のみを支配することとなり、22千石の人吉藩として廃藩置県まで存続することとなった。 とにかく驚いた。球磨川と胸川を天然の堀とした石垣が広範囲に残り、その石垣には櫓や塀が復元されており、橋から見る城跡は壮観の一言。この手の城跡でここまで広範囲に石垣がきれいに保存されていることはまずないと思う。感動しながら大手門があったところから中に入ると、広大な広場があり、一角には歴史館が建っている。奥に進むと、「武者返し」と呼ばれる独特な工夫が施された有名な石垣があるのだが、その周辺にもまた石垣がふんだんに残っている。川から直接入れるようにした水の手門など、門自体は残っていないが、容易に想像できる。そしてさらに進むと、御下門があったところに行きつくのだが、ここにまた巨大な石垣がある。天守台かと思うような石垣で、どんなに巨大な門だったのだろう。そこから石段を上に上がると、ようやくそこが三の丸である。三の丸から二ノ丸にかけても長大な石垣が残る。総石垣の中をまた石段を登ると二ノ丸。この二ノ丸の広いことといったらない。ここに城主の屋敷が建っていたのだそう。そしてそこから見える山並みや人吉市街はまた絶景。このまま行くと本丸はどうなるんだろう、と思いつつ本丸への石段を登っていくと、本丸は山頂付近というだけで、護摩堂跡があるのみだった。 とにかく暑くてフェイスタオルが汗で使いものにならなくなってしまったが、とにかく驚きと感動の連続だった。2万石の藩の城とは到底思えない規模と堅固さに見えた。島原の時にも感じたが、地元の人には申し訳ないが、田舎だからこそ、ここまでの城跡を残せたのではないかと思う。心の底から、永久に残したい城跡だと思う。(H30.8.24) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
延岡城 近世 丘城(53m) |
延岡は古く県(あがた)と称され、土持氏によって初めて県城が築かれた。1601年に当地に入封した高橋元種は居城を県古城の丘と定め、三年の後に完成したと伝えられる。その後有馬・三浦・牧野・内藤氏が入封した。 構造は階郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し、西側の離れた丘に西の丸を置いた。今でもその見事な打ち込みハギの石垣を見ることができる。 |
佐土原城 続日本百名城:196 |
昔、佐土原は田島といい、鎌倉初期に源頼朝の命により工藤氏(後の伊東氏)が代官を派遣していた。代官は田島の館に住んだので田島氏と呼ばれるようになり、佐土原城は田島氏によって築城された。
元亀3年(1572年)に日向国の支配をかけた木崎原の戦いで伊東氏は島津氏に破れ、島津義弘の弟島津家久が佐土原城主となる。家久の死後は子の豊久が継ぐが、1600年の関ヶ原の戦いで戦死。その後幕府直轄領となり、1603年に島津以久が佐土原藩の藩主に命ぜられ、代々支配を続けて明治を迎えた。 *宮崎市佐土原歴史資料館 夕方、飛行機までに少し時間があったので、少し足を延ばす。二ノ丸にある歴史資料館(鶴松館)はすでに閉館していて入れず。歴史資料館の横の道を少し上ると、そこにはすでに城の曲輪があり、「反米役所跡」などの杭がそこかしこにある。そして、山道の入り口のようなものがあったが、そこには線が張られていて「あぶないから入ってはいけません」の看板が。そこを通らなくても、登れそうな道はあったが、もうすでに暗くなりかけていて、飛行機までそんなに時間がなかったこともあり、本丸攻略も断念せざるを得なかった。かなり期待できる城跡ではないかと思う。いつか是非ともリベンジしたいものだ。(R2.1.26) |
飫肥城(おび) 日本百名城:96 |
古くは南北朝時代に土持氏が築城したと伝えられる。その後、島津氏の支配下に入るが、1567年、伊東義祐が攻め取るも、1577年、再び島津氏の支配となる。1587年、伊東氏は、羽柴秀吉に仕え、九州平定に参加し、その軍功により城主に復帰し、廃藩置県まで伊藤氏の支配が続くことになった。 *飫肥城歴史資料館 この城を見るために、日帰りで飛行機でやってきた。駐車場にレンタカーを停めると、観光バスが何台も停まっていて、海外からの観光客と思しき方がたくさん。一大観光地という感じだ。駐車場にあったお店でおび天を買って、食べながら大手門へ向かう。大手門の前には人力車があって、首里城の復旧寄付をしてくれた人を乗せてます、とのこと。あまり時間もなかったのでお断りし、まずは豫章館へ。明治二年に旧藩主伊東家が居を移した屋敷で、解体移築したものだという。現存しているだけあって、趣は非常にあったが、旧藩主が住んでいた割には質素な作りで、あまり広くもない。ただ、庭や離れは閑静な佇まいで、旧藩主の高い感性が伺いしれた。 さて大手門である。周りには土塁、大手門のところにだけ石垣が組まれている。大手門横の石垣は3段になっており、積み方も異なるように思えた。どこまでが現存しているのか分からないが、とても興味深い。大手門は昭和53年に復元されたということだが、いい感じに古さが出てきていて、周りの景観ともマッチして一幅の絵のようである。木造渡櫓(とろ)、本瓦葺き(ふき)なのだそうだ。 感動しながら大手門をくぐり、内枡形を抜ける。その辺までは良く復元されていたのだが、そこを抜けると、急に石垣だけになる。それはそれでいいのだが、振り返ってみると、大手門から内枡形あたりまでの「取って付けた」感が半端ない。この辺が復元の難しさであろう。俺の感覚としては、大手門だけの復元でよかったのではないか。もしくは、中の壁まで忠実に復元するか。そのまま少し歩くと、飫肥城歴史資料館があるが、突如としてコンクリートの博物館が現れる。その向かいには本丸跡地に、飫肥小学校の校庭が。この辺もある程度やむを得ないことは分かっている。でも、やはり少し冷めてしまう。いい城跡であることは間違いないだけに、ないものねだりをしてしまう感じか。 その後、松尾の丸に行く。独立した曲輪で、校庭のところからは階段で上がるのだが、これが後付けの石段。これはかなりいただけなかった。そしてその上に、御殿建築、、、かに見えたが、正確には全国の資料を参考に建てられた武家屋敷なのだそうだ。それでもこれはよく出来ていた。よく研究した上で作られたのだろう。現存と言われても通用するくらいの感覚だった。なかでも蒸し風呂は初めて見た。 その後、旧本丸へ。小学校の校庭になっているところを本丸にする前に本丸があったところである。歩きづらい石段が本物らしく、また枡形虎口が良く残っていて、素晴らしい雰囲気だった。旧本丸スペースには、何十本の飫肥杉が林立しており、これはこれで心が洗われる。パンフレットを見ると、「癒しの森」と呼ばれているんだそうだ。 まとめると、素晴らしい城跡だと思う。このために行く価値は十分にある。どこまでを復元して、どこまでは原状を維持するのか、これは永遠のテーマなのだろうと思う。ある程度復元することで、海外旅行客を呼ぶことにも成功していて、一つの成功事例ともいえるのだと思う。ただ、私としては、在りし日の城全体の姿を見たい。大手門は在りし日のものを復元しているのだと思うが、それ以外はそうではないのだと思う。そして、これはやむを得ないところではあるが、小学校の校庭。。。(R2.1.26) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
姫木城 | |
西之表城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
鹿児島城(C) 近世 平山城 日本百名城:97 |
1602年19代島津家久の代に新しい時代にふさわしい城郭として、中世に上山氏の山城が存在した城山を詰めの城とし、その麓に藩庁である本丸・二の丸を配した。とはいえ石垣と堀があるだけで天守も重層櫓もなく、加賀百万石に次ぐ七十七万石の大名の居城とは思えないものであったという。以来二七〇年間島津氏の居城として続いたが、それも西南戦争で焼失、今は石垣と内堀の一部を残すだけである。 *鹿児島県歴史資料センター黎明館 *JAPAN WEB MAGAZINE 正直「拍子抜けした」というのが正直な感想。そもそも天守は建てられなかったこと、「人をもって城となす」という考え方、外城制度による国全体の防御システム。予備知識は持っていたつもりだったが、とはいっても天下の島津家居城と思って行ってみたら、若干の堀と石垣があるものの、本当にそれだけ、といった風情。最初は、桝形のような正門を入って、正面石垣には西南戦争時の銃痕跡が多数残っているのを見ながら、期待に胸を膨らませて本丸の中に入っていったのだが、そこには鹿児島県歴史資料センターが建てられており、城跡の雰囲気はほぼ無し。近代化の荒波で縮小してしまって、ということではなく、元々この程度の規模の城であったらしいということが分かり、さらに驚いたものの、テンションが上がり切るまでもなく、見学終了してしまった。 一方、そこからバスで20分ほどで行ける仙巌園はよかった。江戸時代の島津家の別邸であり、こちらを城と言っても差し障りないかもしれない。現存する御殿建築は明治時代に建てられたものらしいが、そのスケールの大きさと桜島を望む景色、これぞ島津家、という感じがするのだ。オープン時間ギリギリに行ったもので、あまりゆっくり見学することはできなかったが、島津斉彬公が築いた反射炉跡などの世界遺産も含め、こちらは一見の価値アリ!である。(H30.8.5) |
伊作城(D) 戦国 平山城(72.5m) |
島津三代久経の次男久長による築城で、以来伊作島津氏の本拠となった。十一代貴久は宗家を継ぎ、義久・義弘ら有名な藩主はここから出ていることになる。島津氏領国最大級の山城で、外郭を含めると周囲は4キロに及び、大小の曲輪群が十数、周り5キロ以内には9つの支城があった。幕藩体制下においても外城制の中に組み込まれ、表向きには「地頭仮屋」とか「仮屋」「所」などと呼び、明治までその機能を維持した。この外城制度で存続した城は102を数えたという。 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
金田城 | |
桟原城 | |
厳原城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
勝本城 | |
亀尾城 |
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