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城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
小倉城 近世 海城 |
![]() *公式 ![]() そこでは一瞬、心を動かされたが、あとは全くの幻滅だった。まず本丸に入ると、どこまでが本物の石垣かが全く分からない石垣と、お仕着せの石畳が敷かれてある。天守の中に入ると、ほとんどがつまらない展示物で、コンクリート作りの割にはエレベーターも付いていない。そして極めつけが、本来あった天守は破風の全くないシンプルな天守だったと言う。破風の全く無い作りを、「唐造り」と呼んだと言うことで有名な城なのだが、今や模擬天守の最上階が少し面積が広くなっている造りのことを言うと思い込んでいる人が大勢いたし、そう思わせようとする説明がたくさんあった。 帰りに、庭園とやらにも寄ってみたが、回遊式庭園なのに回遊できないように仕切られているし、「大名屋敷」というよく分からないものがあったり、行く価値は全くない。外国の方の姿もたくさん見たが、城がこんなものだと思って帰国していただきたくは無いものだ。(H17.4.10) |
中津城 | 黒田孝高が築城し、細川忠興が完成させ、江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた日本三大水城(今治・高松)の一つ。 *公式ページ |
長岩城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
福岡城 日本百名城:85 |
![]() 黒田如水・長政父子が1601年から7年もの歳月をかけて築いた名城である。52万石の居城にふさわしく、打ち込みハギ石垣で固めた本丸を中心として24万平方mの面積を城郭とした。大小天守台石垣が残るが、天守は建てられず、その代わりに47基の櫓が並んだ。 *公式 *福岡城さくらまつり ![]() 釈然としないながらも公園をブラブラしていると、名島門があった。名島城の数少ない遺構だそうだ。正直あまり城の門らしくない、らしくないあたりが本物の所以なのだろう。 そのまま道沿いに歩くと、本丸の高石垣が見えてきた。入口付近まで来ると何故か大勢の人。出店もたくさん出ている。よくよく考えると、福岡城は桜の名所なのである。実はかなりの雨だったのだが、この中でかなりの人が花見をしていた。本丸の敷地に入ると、確かに広大な敷地に大量の桜が満開である。そして相当の石垣が現存している。非常に興味深い城だったのだが、大雨だったのがやはりきつかった。靴は泥だらけになるし、写真を撮るにも雨だとなかなか思うに任せない。こういう城は晴れた日に、できればあまり人のいない時に、ゆっくり回りたいものである。 ![]() ところで、天守台の造りが非常に興味深かった。石垣では、天守台に登る階段がどこにも無いのである。もちろん天守台には登れるようになっているし、展望台としての役割があって特にこの時期は天守台に大勢の人が登っていたが、その階段は鉄の階段が後付けされたものだ。小天守等の建物の中で階段を登ったのだろう。天守台もかなりの広さがあり、どんな天守を建てようとしていたのか、想像するだけでも興味深い。その天守台だが、展望台としての役割が強く、鉄板が敷き詰められ、落ちないようにフェンスが設置されている。安全確保のためには仕方ないんだろうが、どうしても心からは納得できないものが残った。 それでもかなりよい城跡であることは間違いない。今度は晴れた日にゆっくりと再訪したいと思う。(H17.4.10) 夕方からだったから暗くなるまで散歩しようと思って再訪。花見シーズンではなかったので人はほぼおらず、じっくり見学することができた。1時間以上かけてぐるぐる城内を回って、地下鉄大濠公園駅に向かっていた時、ライトアップされた櫓門と櫓が・・・前回も全く気付いておらず。見てみると潮見櫓を移築してきたもののようで、本当はそこにあった櫓ではないらしい。若干言葉は悪いが、要するに車の通る道からお城らしい風景を作りだすために作られたフェイクである。江戸・大阪・名古屋などと比べると櫓も残存が少なく、現存する櫓も内側になっていて外からは見えにくい。気持ちは分からなくもないが、復元等を行うのであれば、とにかく史実に忠実に、を大原則にやってもらいたいものである。(H27.1.30)
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大野城 古代 山城(410m) 日本百名城:86 |
![]() *大野城市
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水城 古代 防塁 続日本百名城:182 |
![]() *太宰府市
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岩屋城 戦国 山城 |
高橋紹運によって大野城前方に築かれた城で、よく島津家との激戦地となった。 |
秋月城 | ![]() *朝倉市 *お城の旅日記 ![]() 200メートルほど歩くと城跡に辿り着いた。城跡は秋月中学校の敷地になっており、中学校のわきに黒門と長屋門が残っている。有名なのは長屋門の方で、周りの石垣と共に、よい雰囲気を醸し出している。長屋門の奥には奥御殿があったとされる広場がある。(表御殿は中学校敷地)堀も残っているのだが、陣屋形式ということもあって、残念ながら城を全体として往時を偲ぶのは難しい。ただ、これも城の形態の一つであり、また周りの雰囲気がよく残っているという点で、周りを含めて楽しむべき城なのだと思う。(H29.7.15) |
岩石城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
久留米城 | ![]() *篠山神社 ![]()
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柳川城 | ![]() *立花宗茂と柳川 ![]() そこから歩くこと20分、町中に水郷があって、歩いてて非常に楽しい街でワクワクしながら本丸に向かう。ところが、本丸までたどり着いたら、本丸には中学校、二ノ丸には高校がほぼ全面的にあって、お城の雰囲気は皆無。中学校の敷地の一部に少しだけ礎石のようなものと石垣が残っているのみで、何とも拍子抜けだった。まぁでも街全体がお城ということなのだろう。実際非常に情緒あふれる雰囲気で、のんびりと訪れるには良い街だと思う。(H29.7.15)
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城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
大分城(府内城) 近世 平城 日本百名城:94 |
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杵築城(きつき) | ![]() ![]() |
日出城(ひじ) | ![]() *ひじナビ ![]() |
臼杵城 | |
岡城 近代 山城(325m) 日本百名城:95 |
![]() 「荒城の月」(滝廉太郎)のモデルになった城としても有名。 *竹田市教育委員会 ![]() 建物の遺構は何もないが、石垣が非常に良く残り、城郭全体がほぼ完全に把握できる全国でも数少ない山城だと思う。観光客はかなり少なかったが、訪れる価値は非常に高い城であることは間違いない。(H27.10.2) |
佐伯城 近世 山城(140m) |
1602年から四年をかけて毛利高政によって八幡山に築城された。当時は三重天守、7基の櫓、3期の櫓門などが建てられたが、三代高尚の代に山城では城下町経営に不便だという事で麓に三之丸居館を構え、実質的にそこで政務を執った。今日、三之丸櫓門が現存するが、それはこの居館の正門に当たるものである。 *ハローねっとジャパンのページ |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
名護屋城 近世 山城(90m) 日本百名城:87 |
![]() *佐賀県のページ *佐賀県立博物館のページ *唐津コンピュータ専門学校の特集ページ ![]() なぜかバスツアーの観光客が多くてびっくりした。興味のない人がこれを見てもどこまでわかり、どこまで感動できるものなのか。本当に想像力豊かな人に行ってほしい城である。(H10.7.12) |
佐賀城 日本百名城:89 |
![]() 1599年鍋島直重が着工し、本丸は総石垣作りで五重の天守があがった。天守台石垣と鯱の門、番所が残る。 *佐賀城本丸歴史館のページ ![]() まず正面入り口になっている櫓門「鯱の門」、文句なしに素晴らしい。感嘆しながら中に入ると、本丸御殿がドーン!最近一部の城跡で本丸御殿が再建されたりしているが、まだまだ少数派。本丸に御殿建築があると不思議とテンションが上がる。10年前にできたところであり、全体的にきれいすぎる感はあったが、すべて木造で復元されていて木の香りの心地よさ、また外御書院の広さ、御小書院に渡る通路の狭さ、すべてとても好感が持てた。大広間では生け花の展示会のようなものが開かれていて、そういう活用の仕方も非常に良いと思う。そして何より、最も奥にある「御座間」、なんと門と同様、天保期から現存しているのだそうで、感動せずにはいられなかった。御座間は藩主が日常生活をしていた場所にあたるということなので、床の間を背に、胡坐をかいて一瞬藩主気分を味わったり、御殿建築を満喫した。 ただ残念ながら東京に帰る飛行機の時間が迫っている。後ろ髪を引かれながら出口に向かう。入館料は取らない代わり、寄付をしてくださいとある。少し悩んで、1,000円札を一枚入れた。もう少し入れてもよかったかな。それ位の価値はあったと思う。御殿を出て、駅に向かおうとしたのだが、どうしても天守台が気になる。行けそうなのに行く道が見つからない。ウロウロしていたら外側からそっと道があった。来る時に通ったはずなのだが、見落としていたらしい。趣のある石垣を見ながら石段を登り、天守台から御殿を眺め、満足して帰路についたのであった。 ここまで書いて、追記する必要も感じないが、とにかく期待を大きく上回る城跡であった。御殿建築としては高知城、二条城二の丸、川越城、と並ぶものだと思う。名古屋城にも近い内に行ってみたいものだ。(H27.1.31)
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吉野ヶ里遺跡 日本百名城:88 |
![]() *吉野ケ里歴史公園 ![]()
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基肄城 古代 山城(405m) 続日本百名城:184 |
665年に、大野城と共に太宰府背後の守りとして築城された。大宰府の南の詰めの城として、基山とその東峰にかけて谷を囲み、約4キロに渡って土塁・石塁を巡らした。朝鮮式山城であり、古代の技術を目の当たりにできる。 *基山市
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島原城 近世 平城 日本百名城:91 |
![]() *島原城のページ ![]() ところが、入口が車道なのである。堀に橋があるわけではなく、車道になっていて、そこを入ると、天守の下が駐車場になっている。堀や石垣は全般的に良く保存しているのに、車道を作るのに堀を埋めたのだろうか。車道を作らないと人があまり入ってこれないので、やむをえず、ということだろうか。堀と石垣に感動してからなので、その落差たるや。とはいえ、天守は在りし日の通り破風等のない層塔式天守を再現している。日本の城には破風がつきもので、破風がそのカッコよさに繋がっているところがあって、再建する時には模擬天守とすることも選択肢にはあったのではないかと思うが、史実に基づいて外観復元しているのは素晴らしいと思う。 天守に入ってみた。入口ではなぜか武将の恰好をした女の子が迎えてくれる。中はコンクリート城特有のにおいが充満し、盛り上がる感じでないのは事実だったが、展示物は思いの外だった。鎧や刀がそれぞれ10個ほどずらっと並び、それはそれで壮観だったし、この城の特徴でもあるキリシタン系の展示も充実していた。 他の再建された櫓もいろんな展示があるようだったが、正直あまり興味が湧かなかったので、城内をウロウロしてみたところ、「島原駅への近道」というような表示が。そこに沿って細い道を行くと、大手口に出た。大手口にありがちな大きな石もある。そこには桝形もあったらしい。二の丸に続く橋もある。こういうのを見たかったのだが、危うく見逃すところだった。なかなか一般受けはしないのだろうが、単なる近道扱いはどうかと思った。逆にみんなが気付いていないところを見れる醍醐味はあるかもしれないが。驚くのは、その周辺の堀が田んぼになっていること。二の丸の堀はほとんどそうなのだが、稲が植えられているのだ。 いろいろ書いたが、総合的には行く価値が大いにある城と思う。とにかく堀と石垣が素晴らしい。地元の方には申し訳ないが、これだけの田舎だからこそここまで保存できたということなのかも知れない。(H28.6.29) |
原城 | 言うまでもなく島原の乱において一揆軍が篭った城である。現在では空掘りがよく残り、本丸が公園になっている。 |
平戸城 日本百名城:90 |
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唐津城 近世 平山城(43m) |
![]() ![]() ところで、前日の夕食に行った唐津市内の「十六夜」で食べたイカの活造りコースは本当においしかった。2,800円であれだけのものを食べられたら大満足だろう。間違いなくお勧めである。(H10.7.12) |
鹿島城 | |
諫早城 | ![]() ![]() |
日野江城 | 有馬氏の居城。 |
石田城(B) | 長崎からフェリーで約4時間半、福江港から歩いてすぐにある城跡。遺構としては石田門、石垣、堀などであるが、城跡の隣には藩主五島氏の庭園があり、その隅には城内からの抜け穴も残っている。港内波止場の対岸には常灯鼻(昔の灯台)もある。【岩井さんのメールより(千葉県在住)】 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
熊本城 近世 平山城 日本百名城:92 |
![]() 言うまでもなく加藤清正による天下一の名城である。三層五階づくりの櫓が天守の他に六基もあった。1608年に築城された当時、櫓は48基あったという。現存するのは13基の櫓と2棟の城門、長塀など。 *熊本市 *学会サポートセンター *熊本国府高等学校 *肥後国見聞録 *熊本大学のページ *岡崎さんのページ ![]() ![]()
20年ぶりの熊本城。震災で被災して、石垣の一部が崩れたままで、一部の塀や櫓は傾いたままの状態であり、城地の中に入ることは叶わなかったが、外を一周することが出来た。まず誤解無いように書いておくが、大半の石垣は大地震でも堅固に残っている。自分自身そうだろうとは思っていたが、報道を見ていると崩壊した石垣ばかり映すので、少し不安だった面もあった。実際に行ってみると、おそらく95%程度の石垣はそのままである。とはいっても、城地があまりに広く、また石垣を多用した城郭であるため、残りの5%でも相当のボリュームであることは間違いない。三の丸を始め、いくつかの場所に、崩落した石垣が、裏に番号を記入された状態で保管されていた。完全復旧には時間がかかると思うが、是非とも早期に実現してほしいものである。 前回は営業時間外でできなかったが、復興城主に申し込んだ。ささやかではあるが、一日も早く、以前の姿に復興してもらいたい。(H30.8.23) |
宇土城 | 1588年、小西行長が肥後南半分の領主となり、宇土城の築城を開始したが、文禄・慶長の役、関ケ原合戦を経て処刑されることとなる。その後、加藤清正が自身の隠居所とするために改修を開始したものの、1611年に病死、幕命により破却された。今、石垣と空堀の一部が残るが、これは加藤時代のものであり、小西時代の遺構はすべて地下に埋め込まれている。![]() |
宇土古城 | 小西行長が建てた宇土城と区別するため、中世宇土城などとも呼ばれる。1048年に築城され、宇土荘の荘官だった宇土氏や、守護職であった菊池氏がこの城を巡って争った。近世宇土城が建てられるまで存続したとみられる。![]() |
八代城 近世 平城 |
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人吉城 日本百名城:93 |
![]() ![]() とにかく暑くてフェイスタオルが汗で使いものにならなくなってしまったが、とにかく驚きと感動の連続だった。2万石の藩の城とは到底思えない規模と堅固さに見えた。島原の時にも感じたが、地元の人には申し訳ないが、田舎だからこそ、ここまでの城跡を残せたのではないかと思う。心の底から、永久に残したい城跡だと思う。(H30.8.24) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
延岡城 近世 丘城(53m) |
延岡は古く県(あがた)と称され、土持氏によって初めて県城が築かれた。1601年に当地に入封した高橋元種は居城を県古城の丘と定め、三年の後に完成したと伝えられる。その後有馬・三浦・牧野・内藤氏が入封した。 構造は階郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し、西側の離れた丘に西の丸を置いた。今でもその見事な打ち込みハギの石垣を見ることができる。 |
佐土原城 続日本百名城:196 |
![]() *宮崎市佐土原歴史資料館 ![]() |
飫肥城(おび) 日本百名城:96 |
![]() *飫肥城歴史資料館 ![]() さて大手門である。周りには土塁、大手門のところにだけ石垣が組まれている。大手門横の石垣は3段になっており、積み方も異なるように思えた。どこまでが現存しているのか分からないが、とても興味深い。大手門は昭和53年に復元されたということだが、いい感じに古さが出てきていて、周りの景観ともマッチして一幅の絵のようである。木造渡櫓(とろ)、本瓦葺き(ふき)なのだそうだ。 感動しながら大手門をくぐり、内枡形を抜ける。その辺までは良く復元されていたのだが、そこを抜けると、急に石垣だけになる。それはそれでいいのだが、振り返ってみると、大手門から内枡形あたりまでの「取って付けた」感が半端ない。この辺が復元の難しさであろう。俺の感覚としては、大手門だけの復元でよかったのではないか。もしくは、中の壁まで忠実に復元するか。そのまま少し歩くと、飫肥城歴史資料館があるが、突如としてコンクリートの博物館が現れる。その向かいには本丸跡地に、飫肥小学校の校庭が。この辺もある程度やむを得ないことは分かっている。でも、やはり少し冷めてしまう。いい城跡であることは間違いないだけに、ないものねだりをしてしまう感じか。 その後、松尾の丸に行く。独立した曲輪で、校庭のところからは階段で上がるのだが、これが後付けの石段。これはかなりいただけなかった。そしてその上に、御殿建築、、、かに見えたが、正確には全国の資料を参考に建てられた武家屋敷なのだそうだ。それでもこれはよく出来ていた。よく研究した上で作られたのだろう。現存と言われても通用するくらいの感覚だった。なかでも蒸し風呂は初めて見た。 その後、旧本丸へ。小学校の校庭になっているところを本丸にする前に本丸があったところである。歩きづらい石段が本物らしく、また枡形虎口が良く残っていて、素晴らしい雰囲気だった。旧本丸スペースには、何十本の飫肥杉が林立しており、これはこれで心が洗われる。パンフレットを見ると、「癒しの森」と呼ばれているんだそうだ。 まとめると、素晴らしい城跡だと思う。このために行く価値は十分にある。どこまでを復元して、どこまでは原状を維持するのか、これは永遠のテーマなのだろうと思う。ある程度復元することで、海外旅行客を呼ぶことにも成功していて、一つの成功事例ともいえるのだと思う。ただ、私としては、在りし日の城全体の姿を見たい。大手門は在りし日のものを復元しているのだと思うが、それ以外はそうではないのだと思う。そして、これはやむを得ないところではあるが、小学校の校庭。。。(R2.1.26) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
姫木城 | |
西之表城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
鹿児島城(C) 近世 平山城 日本百名城:97 |
![]() *鹿児島県歴史資料センター黎明館 *JAPAN WEB MAGAZINE ![]() 一方、そこからバスで20分ほどで行ける仙巌園はよかった。江戸時代の島津家の別邸であり、こちらを城と言っても差し障りないかもしれない。現存する御殿建築は明治時代に建てられたものらしいが、そのスケールの大きさと桜島を望む景色、これぞ島津家、という感じがするのだ。オープン時間ギリギリに行ったもので、あまりゆっくり見学することはできなかったが、島津斉彬公が築いた反射炉跡などの世界遺産も含め、こちらは一見の価値アリ!である。(H30.8.5) |
伊作城(D) 戦国 平山城(72.5m) |
島津三代久経の次男久長による築城で、以来伊作島津氏の本拠となった。十一代貴久は宗家を継ぎ、義久・義弘ら有名な藩主はここから出ていることになる。島津氏領国最大級の山城で、外郭を含めると周囲は4キロに及び、大小の曲輪群が十数、周り5キロ以内には9つの支城があった。幕藩体制下においても外城制の中に組み込まれ、表向きには「地頭仮屋」とか「仮屋」「所」などと呼び、明治までその機能を維持した。この外城制度で存続した城は102を数えたという。 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
金田城 | |
桟原城 | |
厳原城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
勝本城 | |
亀尾城 |
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