作者のお部屋
ボート

地味〜なページを地味〜にリニューアルしてみました。
内容を一新、日経新聞の「私の履歴書」風に私の生い立ちを書きながら、私の性格等を分析していきたいと思っております。かなり濃いです。そんなこと知りたくねーよ、ということが書いてあるかもしれません。そう、知る必要のないことばかりです。でも落ちは別にありません。そういうページです。読みたくない方は「戻る」ボタンでお戻りください。読まれる方は、時間の無駄になる可能性を了承してからお読みください(笑)

生い立ち

  1. 昭和49年 大阪に生まれる。
  2. 昭和54年 幼稚園入学
  3. 昭和56年 小学校入学
  4. 昭和62年 中学校入学
  5. 平成2年 高校入学
  6. 平成5年 大学入学
  7. 平成9年 会社に入社
  8. 平成12年 転勤(大阪→東京)
  9. 平成12年 結婚
  10. 平成13年 長女誕生
  11. 平成15年 マンション購入
  12. 平成16年 長男誕生
  13. 今に至る

1.出生〜幼少期

大阪南部の田舎で生まれる。今は随分と住宅街になってきたが、小さい頃は家の前に田んぼがあり、家の横には畑があるという随分とのどかなところだった。それでも家は駅から歩いて5分という至極便利なところに建っている。今考えると不思議な世界である。

生まれたのは家から歩いて10分ほどの産婦人科。今は潰れてしまったかなぁ。生まれた4日後にこれまた家から歩いて5分ほどのところにスーパーがオープン。出産祝いはほとんどそのスーパーで買ったものだったらしい。私が20才頃だっただろうか、さらに10分ほど歩いたところに大型スーパーができ、それを機に閉店してしまった。でも今やその大型スーパーも閉店してしまい、実家の周りにはスーパーは一つも無い。

親が言っていたことによると、とにかく寝ない子だったらしい。やっと寝付いたと思って、布団に降ろすと、泣いて起きる。また抱っこして、寝て、降ろすと、泣いて起きる。その繰り返しだったらしい。まぁよく言えば、感受性豊かな子だったんだろう。
あと、とにかく寝相が悪かったらしい。朝起きると布団をはみ出して、部屋の端っこで寝ていたということがよくあったようだ。

さすがに小さい頃の記憶はほとんど無いが、よく旅行には連れて行ってもらった。家族は両親と姉と祖母。5人でいろんなところに旅行した。でも今考えるとほとんど記憶していない。思い出に残っているのは、車の中でお菓子を食べたこと、旅館ではしゃいだこと、そんなものである。子供なんてそんなものかも知れないが、何となくもったいない。記憶には残らない何かは得ているのだろうが・・・。あ、ホテルで朝起きたらベッドから落ちて寝ていたということも。

それから、母親が働きに行っていたので、家には祖母しかいないことが多かった。小さい頃から祖母に育てられた。いわゆる「おばあちゃん子」である。小さい頃は、ご褒美に「お婆ちゃんと一緒に寝る」というのがあったらしい。そんなものがなぜご褒美になるのかよく分からないが、子供の頃はそれが嬉しかったのだ。正直、うまく親にだまされてたなぁ、というものである。

とはいえ、田舎である。虫はたくさんいた。さすがにもう少し大きくなってからだったと思うが、夏は蝉取りに走り回った。特定の木にいつもクマゼミが群がっていて、クマゼミを取りたければそこに行った。蝉だけではない、トンボやチョウも取り放題だった。もちろん、ダンゴ虫やミミズ、ヤモリ、アリなんかも遊び相手だった。それから、ザリガニなんかもよく取りに行った。スルメをヒモに結び付けて、池につるすだけである。田舎はいいこともたくさんあった。

2.幼稚園時代

幼稚園も記憶はほとんど無い。母は保育所で勤めていて、姉はその保育所に行っていたのだが、私は幼稚園だった。ちょうどその頃に母は保育所を辞めていたような気もするし、そうでなかったような気もする。どうして兄弟違うのかなぁ、と子供ながらに思っていた気がする。

結構昔ながらの幼稚園で、結構ぼろかったイメージがある。卒業したら2〜3年で建て変わって、かなりきれいな校舎になった。今近くを通っても、懐かしさとかを全然感じないのはそのせいだろう。ただ、裏門周辺だけは雑草が茂っていて、いまだに鬱蒼としていて、そこだけは少し懐かしかった。

それから、その頃から習い事が始まった。正直当然行きたくなかったが、そんな事を言えるはずもなく、もちろん判断能力も無かった。習い事は、「ピアノ」「スイミング」である。

前者については、ほとんど全くといっていいほど上達しなかった。練習をほとんどしなかったからである。興味を持っていないものを、真剣に練習するはずが無い。一応毎回課題があるので、ある程度練習をしていって、その結果を見てもらって先生に修正してもらう、という形の習い事だったのに、練習をしていかなかったらどうなるか。目に見えているわけである。とにかく毎回ボロボロで、前日ににわかごしらえの練習をして、毎回行っていた。ピアノと共に、歌のレッスンもあった。こちらは別に練習しなくても何とかなったので、こちらはそれなりにこなしたように思う。面白くなかったが、ピアノの先生の家の近くに友達が住んでいたので、帰りにその友達を誘って、遊んでから、帰るのだけが楽しみだった。それから当然数ヶ月に一度発表会というものもある。「恐怖の」発表会である。歌はいいのだが、とにかくピアノ。姉との二重奏とか、いろいろあったが、とにかく成功した記憶が無い。あれは恐ろしかった。。。ピアノの習い事は、結局全然上達せず、バイエル(?)の1冊目が終わったところで、釈放。結局2〜3年くらいだっただろうか。いまだにピアノは弾けない・・・

後者「スイミング」は、ピアノに比べれば楽しんでいたし、長くも続いた。ただ、もちろん自分から行きたいと言った訳ではなかったし、最初はすごく嫌だった。超初心者のクラスから始まって、月に1度(だったかなぁ?)ある試験のようなものに通ると、次のクラスに行ける。クラスが変わると新たな布のバッジがもらえて、次回からはキャップにそれを付けて来る。そしていろんなクラスを経て、上達していく、という寸法である。親は動機付けのためなのだろう、クラスが上がると食事に連れて行ってくれたりするのだが、そもそも楽しんでいないものを、それで好きになるわけも無い。結局そこそこは上達したが、さらに、というのは無かった。最終的に小学校高学年まで続けたんだろうか。その頃になってようやく面白くなってきていて、やめたくなかったのにやめないといけなかったという状態だった。やめないといけなかった理由は後述するが、なかなか難しいものである。

そうそう、幼稚園の時に、初めて入院というものをした。「虫垂炎」:盲腸である。ただ、今考えると本当に虫垂炎だったのか、かなり疑わしい。姉が虫垂炎になって入院して、確かその直後に私も発症して、追うように入院した。確かにお腹が痛くなった記憶はあるが、そんなむちゃくちゃな痛みではなかったようにも思うし、幼稚園生が盲腸で入院するのはちょっと早すぎるようにも思う。病気なんていつ起こったって不思議ないものではあろうが、、、この頃から、少しずつ医者不信が芽生え始めたのかもしれない。

3-1.小学生低学年

嫌な小学生だった、と思う。親の性格もあったのだろうが、小学校に入学する随分前から、小学校で習うべき事を教え込まれた。親が教師をやっていたということも手伝って、入学した時にはすでに全教科で小学3年生くらいの学力には達していたと思う。学校で習うことは全部知っているし、テストも簡単、授業は聞かなくてもわかる、そうすると授業中他のことをしていたり、キョロキョロしていたり、落ち着かなくなる。小学校低学年の時の先生の評価は「落ち着きが無い」でほぼ決まりだった。

でも低学年の時は、それなりに活発な少年だった。勉強と共に、親が中学で野球部のコーチをしていたこともあり、キャッチボールをするなどして、運動も周りよりはできるようになっていた。それに喧嘩もよくやった。親にはうまくばれないようにしていたが、同級生と喧嘩して、小学高学年のお兄さんを連れてきたのに、そのお兄さんにも勝ったりしたこともある。勉強・運動ができて、喧嘩も強い。当然学級委員は常連だったし、えらそうにしていたし、仕切り屋だった。今考えるとかなり嫌なやつである。

自分の気持としては、その頃、少年野球に入りたかった。でも認められなかった。親が教師であり、中学で野球部のコーチをしていたから知った顔に頻繁に会うのが嫌だったのか、少年野球の試合には、毎回親が応援に行かないといけないらしく、それが嫌だったのか、はたまた野球にのめり込んで、勉強しなくなると思ったのか、とにかく認められなかった。その代わりにという訳ではないのだろうが、今度は「習字」に行くことになった。いや、行かされる事になった。この習い事も嫌だった。でもそれなりに上達して、小学生の段位ながら、4段というところまで行った。じゃあ、今字がうまいかというとそうでもない。ピアノもスイミングもそうだが、この頃の習い事にはどれだけの意味があるのか、かなり考えさせられるものがある。

それから、医者不信の芽を大きくすることもあった。3年生の時だったか、友達とキックベースをやって遊んでいた時、バッターでボールを蹴ろうとして走っている時に、段差のところで大きく転んだ。コンクリートと土で脛を大きく擦りむいたのである。でもそこは子供である、重大なこととは全然思わず、軽く水で洗っただけでキックベースを続行した。(傷は、直径2センチくらいの円形だった。)ところが家に帰るとその傷は膿み始めていたらしい。急いで病院に行って、処置をしてもらった。処置といっても、ばい菌を出して、きちんと消毒して、薬の染み込んだ網状のものを貼って、包帯を巻く、というだけのことである。週に一回通院をといわれ、週一回繰り返し通院していたのだが、その度に薬の染み込んだ網状のものを剥がす。血が固まりかけているだけに、それが痛いのなんの。毎週それを繰り返されて、通院が本気で嫌になった。結局どうやってどれくらいの期間で治ったのかの記憶は定かではないのだが、最終的に傷の跡が大きく残る結果となった。傷の大きさである直径2センチの跡が、盛り上がった状態で残ってしまったのである。今考えると、いや子供心にその頃も疑問だった。あの網状のものは毎回剥がすべきだったのか?何らかの意図があって剥がしたのだと思うが、結果はこうである。そんな大げさなことではないのかもしれないが、「医療ミス」だと思う。親は、完全に治っていない状態でスイミングに通わせたことが原因だったのかも、などと責任を感じてくれているが、私は9割方医者に責任があると思う。ちなみにその傷跡は、いまだに私の左ひざに残っている。

3-2.小学生高学年

小学4年生の時の担任の先生が変な先生だった。我ながら生意気なガキだったんだと思うが、いくらなんでも小学4年生に対して、「文句マン」というあだ名を、先生がつけるのはどうだろうか?いまだにそのあだ名を覚えているくらいだから、当時相当衝撃的というか、ショックだったのである。本を読んでいたりもしていたので、それなりに周りよりは知識もあったから、いろいろと知ってることをひけらかしたり、先生の言っていることを我が物顔に訂正したりしていたんだとは思う。先生としたら、それがよっぽど気に入らなかったんだろう。しかしどう考えても小学校の先生が教え子につけるあだ名ではない。でもその先生は私にだけそんなあだ名をつけたかというと、そうでもなかったような気もする。結構周りの子もそんなあだ名をつけられていた。

その頃から性格も大きく変わった。低学年の喧嘩の話もあるように、低学年ではどちらかと言うと活発で、みんなの注目を浴びて、みんなを引っ張っていくのが好きなタイプだった。ところが、高学年から、急に内気で、おとなしい、恥ずかしがりやな面が出てきた。何かきっかけがあったのか?考えても、何も思い浮かばない。成長に伴って、自分が嫌なガキであることが分かってきたのかもしれない。周りが見えてきたということかもしれない。先ほどの「文句マン」も一つの大きな要因だったのだろう。目上の人からそこまで侮辱されたのは初めての経験だったからだ。とはいえ、この時期が私の中では第一の転換点だったんだと思う。大人になる時に多分みんな通る道、私にとってのそういう時期だったんだろう。

さて、4年生からは、塾通いが始まった。これまた行きたいと言ったわけではない。(当然だが・・・)当時、親に「そろばんと塾とどちらに行きたいか?」と聞かれた。その頃から、子供ながらに電卓があるのになぜそろばんを習う必要があるのか?なぞと思っていたので、必然的に、「塾」ということになった。それと、その時姉が中学受験をしたのだが落ちてしまったということもあった。明らかに中学受験をにらんでの塾通いだったわけだ。今でこそ小学校の塾通い、中学受験、というのは特に特異なことでもないようだが、その当時はかなり珍しかった。正直もっとみんなと遊びたかったが、ほとんどそれはできなかった。平日は習字とスイミング、日曜は塾、友達と遊んでいる時間はほとんど無いのである。校庭や公園で野球やサッカーをやっている友達を尻目に、早々に家に帰る日々。悲しい記憶の方が多く残っているのは仕方ないことなのかもしれない。

先ほど姉の話があったが、小学校ではとかく姉と比べられた。ただでさえ、父親が同じ市で中学校の教師をしていて、祖母の弟が小学校の校長をしていた(私が行っていた小学校の!である。正確には私が入学する前年まで校長だった)ので、我々兄弟はとかく目立つ存在だった。それに、この頃から、兄弟で性格の違いが大きくなってきた。姉はより外向的に、みんなを引っ張っていく方向に向かった。先ほど書いたように、私はより内向的に、おとなしい方向に向かっていただけに、3歳上にそういう姉がいて、同じ、もしくはそれ以上のことを求められるのはかなり辛かった。姉は児童会長をやったり、発表会で主役を張ったりととかく目立つことをやっていた。これに対し、私は児童会長どころかクラスの役員にさえ選出されなかった。5年生の時は、学習発表会で姉が6年生の時にやった同じ劇をやり、一応主役クラスを演じたものの、正直そんなにうまくできたとは思えない。

5年生の時の林間学校で、私にとっては重大な事件があった。1泊した翌日の朝、学年全員が集まる朝礼で、昨日の反省と今日の抱負を話すことになったのだ。もともと、そんなことできそうに無かったし、嫌だったのだが、@林間学校に行く前の日に親にやるように言われていたA誰がしゃべるかを決める場で、担任の先生方の目がやれと言っていたB他の候補者の目がお前やれよと言っていた、等々かなり被害妄想も入っている可能性が高いが、そうしてこれを私がやることになった。その頃、みんなの前で何かをしゃべることがとても苦手になっていた私にとって、拷問にも等しいもので、前日の泊りでは、みんなが枕投げ等で楽しそうにしている時に、何を話そうか、延々と悩んでいた。結局、結果は火を見るよりも明らかであり、大失敗。その事件はいまだにトラウマとなっているように思う。これをきっかけに、あがり症はエスカレートしていったのはほぼ間違いない。今私の性格で切っても切れない「あがり症」はこうして生み出されたといっても過言ではないのだ。

この頃にも、医者のお世話になる出来事があった。ある日、友達と池の岸で遊んでいた。そこにはゴミや材木切れなんかが落ちているようなところで、何をしていたのかよく分からないのだが、そこで、材木から出ているクギを踏んだのである。当然きれいなクギではない、錆付いた汚いクギ。確か左足の親指の付け根の内側だった。すごい痛かったが、やはりその時もそのまま遊んで、家に帰って親に見せて大騒ぎになった。すぐに医者に行って、体に入ってしまった錆を出してもらって、消毒をした。あっさり書いたが、その痛かったことと言ったら無かった。かなり深くまで刺さっていたものらしいのだが、当然麻酔は無し。グリグリと突っ込むのである、しかも指である、生まれて今までの間で一番痛い経験だった。でも今回はよい結果となった。適切な処置だったようで、その後数回消毒に通うこととなったが、それで完全に治ったのだ。この時は一時期、医者不信ではなくなった時期だったのだが・・・。

そういえば、初恋はこの頃だったような気がする。思春期で、異性のことが気になリ始めたという事だと思う。周りに比べると、随分遅かったような気もする。オクテではあったが、女の子と話ができないとかそんなことは無かった。席替えとかで可愛い子が隣になると嬉しかったし、いろいろと話もした。でもそういう子が好きになったということではなく、好きになったのは、割と無口な可愛らしい子だった。それが本当に好きという感情だったのかどうかも分からないし、その子のことを好きだと誰かに言ったわけでもない。そんな気がすると思っただけで、結局ほとんど話もせずに卒業した。初恋なんてそんなものだろう。

さて、中学受験に向けて、塾に3年間通ったわけだが、特に6年生は塾に専念することになった。5年生をもって、習字とスイミングはやめる事になったのだ。先ほども書いたが、スイミングはようやっと面白くなってきていたのだが、続けることは許されなかった。とはいえ、成績はそれなりによかったと思う。その地域ではかなり難しいという有名な塾だったのだが、その上から2番目のクラスで、その中でも常に上位にいた。模擬試験なんかでも、志望校の合格率的にはAとかBがほとんどだった。でもその頃から負けん気は強くなかった。模擬試験とかで周りの子が私よりもよい成績を取って、すごい喜んでいるのを見て、何がそんなに嬉しいのかなぁ?と思ったのを今でも記憶している。その子の喜び方がすごかったんだろうと思うのだが、そんなに喜ばれたら、「なにを!次回はオレの方が!」となっても良さそうなもの。でもそういう気持ちは全く感じなかった。それでも志望校には見事合格。正直自分が志望していたわけでもないので、入れたこと自体はそんなに嬉しくは無かったが、学校で親のことを言われたり、姉と比べられたりすることがなくなることが無性に嬉しかった。

4.中学生

中学受験で入ったもんだから、当然ながら中学は地元ではない。JRで40分、地下鉄で20分、乗換えやらを合わせると、1時間15分くらいかかるところにある。大阪と言っても田舎の方で生まれ育っていた私にとっては、大阪市内と言うのはすごい都会なのである。地下鉄に乗って通学するなんて、かなりの冒険と言って良い。結局、中学の3年間は、通学路以外のところにはほとんど行かなかった。いや、行けなかったのかもしれない。真面目でもあり、意気地なしでもあり、世間知らずでもあったのだろう。

さて、入学式やらのことはほとんど記憶に無い。友達ができるかどうか、というのがやはり最初の大きな問題だった。学校の中には、我々のように受験をして入ってくる人間もいれば、系列の小学校から上がってくる人間もいる。数的には半々くらいだったろうか。当然のように上がって来た子はそういう子同士で固まるので、自然と受験グループはそちらで仲良くなる。私の名前は「す」で始まっているが、その次の受験グループは「た」で始まる子がたくさんいた。いまだに親友として付き合いが続いている「高橋」は私の次にいた子なのだ。その他にも親しい友人は、いまだに「た」で始まる名前の子が多い。スタートって大事なものだと思う。

中学で何が大変だったって、やっぱり通学だろう。毎日1時間15分かけて通うのはやっぱり辛かった。記憶では、6時48分発の電車で通っていた。それでもその頃は親の方針もあって、夜10時には睡眠に入っていたと思うので、寝不足ということは無かった。最初のうちは通学の電車の中1時間と言う時間をうまく利用できなかったが、その内本を読むようになる。最初に読み始めたのは「星新一」ショートショートという非常に短い小説を得意とする小説家で、その人の文庫本を漁るように読んだ。それまでは、伝記小説や物語を親に読まされていた、という感覚だったが、この頃から、ようやく自分が読みたい本を買って読むようになった。最初に星新一にはまったというのは、大げさだが、もしかするとその後の性格形成に大きな影響を与えたような気がしている。今の私の性格として、何をやるにも全体から見て個々の事をすることが非常に多いタイプだと思う。例えば、旅行の計画を立てるにしてもそうだし、何か作業をするにしてもそう、このホームページでもそうだと思う。そういう性格は、短い話の中で完結する話を最初に多く読んだから、起承転結の流れも早く理解できたし、全体を見るということも比較的早くできるようになったような気がする。大学の頃だっただろうか、星さんが亡くなったという話を聞いたときは、非常にショックだった。それだけ大きな影響を与えられた作家だった。

ちなみに、その後は、月並みながら「赤川次郎」にはまった。三毛猫ホームズシリーズはほとんど揃えたのではないか、というくらい買い込んだ。あの人の小説はやはり読みやすい、分かりやすい、面白い。中学時代は「星新一」と「赤川次郎」ずくめだったといっても言い過ぎではない。

さて、受験をして入った学校で、勉強の方はどうだったかというと・・・まず受験で入っている人と小学校から上がってきている人がいるということもあり、ビリッケツということはまず無かった。偏差値で言うと、55とか、そういうことが多かった。中間テストと期末テストがあるという状況になれるのに1年くらいかかったようにも思う。そして2年生になって、成績が伸び始める。テスト慣れしてきたというのもあるのだと思うが、確か中学2年の2学期末テストで、学年2位という成績を取るのである。小学校の時はそういう成績であっても不思議は無かったのだと思うが、受験して入った中学校でそういう成績をとったというのは、自分自身驚きだったし、天狗になったのも事実だった。それが、後で恐ろしいことにつながるとは、その時はもちろん思いもしなかった。

学校だから、当然クラブ活動もある。ただ、そういう学校だから、そんなに真剣に取り組むような部活動ではなかったように思う。何となく、私は『卓球』クラブに入った。小学校の頃から少しやっていたこともあって、本当に何となく入部した。準備体操とかはしたものの、基礎体力作り、いわば走り込みだとか、そういうことは一切しなかった。卓球台の上での練習、ラリーだとか、サーブ練習だとか、そういうものは当然あったが、そういうことばかりできたのだから、普通のクラブ活動から考えると夢のような世界である。逆に言うとそんなことでは本当の意味で強くは絶対なれない。試合などにも何度か出たものの、当然のごとく、全部1回戦負け。そんな練習ではそんなものなのだ。

そんな練習しかしていないのに、ある日練習が終わった後、家に帰り着くと、左足の膝が痛いのである。特に屈伸をすると痛い。何だかよく分からなかったが、とりあえず親に話をすると、やっぱり病院に行くことになった。行った病院は先ほどのクギの治療をしてくれた病院。私としても信頼をしていた病院である。初診での診断は「原因は不明だが膝に水が溜まっている。一度抜いて見て、様子を見よう。」だった。1週間後再度行くと、「やっぱり溜まっている、もう一度抜いてみよう。」だった。再度行ってみると、「やっぱり溜まっている。あまり何度も抜いていると、癖になるかもしれないから、今度また溜まっていたら、別の治療を考えよう。」だった。再度行ってみると、「やっぱり溜まっている。今度はギブスで固めて様子を見よう。」ということになった。1週間ギブスで固めて、もう一度病院に行って外してみると、「溜まっていない。来週来て溜まっていなかったら治ったということだろう。」という。ホッと胸をなでおろし、再度行ってみると、「やっぱり溜まっている」と言う。そして今度は、自分の手には負えないから、紹介状を持って大学病院に行けと言う。オイオイ・・・今までの治療はなんだったんだ???

確か学校を何度か休んで、大学病院に行った。おっそろしい長時間待たされて、初回は触診のみだったような気がする。その次に、薬か何かを膝の中に入れて、レントゲンに写るようにして、レントゲンで原因をつかもうとしたらしい。その結果も、やっぱり分からず。結局、何と膝に穴をあけて、内視鏡で状況を見ることになった。入院をして、手術である。私にとっては、虫垂炎以来の入院。膝の痛みを感じたのが、中学2年生だったが、この入院は中学3年生の夏休みだったように記憶している。非常に長期間にわたる治療だったわけだ。手術の時の下半身麻酔も痛かった。背中に脊椎注射をするのである。見えないところに注射されることほどの不安は無い。虫垂炎の時は、幼稚園生ということもあって、全身麻酔をしてもらったから、一部だけ感覚がなくなるというのは初めての経験だった。内視鏡を膝に入れて、テレビ画面に中の映像を映し出し、ここがこうで、と説明してくれるのだが、サッパリ分からなかったし、麻酔のため呆然としていたようにも思う。結局、膝の半月盤の形が先天性異常だったことが原因で、異常部分を削り取ります、ということで手術は実施され、成功した。

釈然としないものが残った。未だに釈然としない。モヤモヤしたままである。確かに膝は痛くなった事実はあるのだし、術後のリハビリを経て、痛みは無くなった。結局手術をしないと治らないものだったのかもしれない。でも、でもである、原因は本当に先天性半月盤異常だったんだろうか?ここからは完全に想像でしかないが、「最初の先生が誤診をして、水を抜いたりギプス等の誤った治療を行った結果、後に引けなくなって大学病院を紹介し、紹介された大学病院も異常はありません、というわけにも行かず、結局医者のプライドのためだけに手術までした。」という可能性もあるのではないか。あくまで可能性の問題だが、どこかで誤診を認めてしまったら、それまでの診療代を返還請求される可能性もあるし、プライドの問題もある。今はいろんな医者がいるようだが、その頃は特に医者は偉そうだった。最初の膝の痛みだって、そんなひどい激痛だったわけではない。後で考えると、それくらいの痛みはその後も何度もなっているし、放っておいたら自然と治った。環境や刺激によって、そうした痛みが出ることもあるのかもしれない。その時がそうだったのかどうか今になっては分からないし、それくらいの痛みで病院に行く方が悪いのかもしれないが、親にしてみても、子にしてみても、やはり不安であれば病院に行くだろう。病院はそうした人を含めて診断しているのだし、それは当然のことだから、そうしたことを前提に診断をすべきなんだと思う。もちろん、医者としても「何ともないと診断して、後で重病だったと分かった」りしたら、それこそ一大事だろう。しかし、そうしたことを考慮しても、やはり医者の責任は重いと思う。医者は人の命を預かっているのだし、人生をも預かっているのだ。医者になる人間は本当にそれだけの覚悟を持って、なっているのだろうか。この事件で、私の医者不信は決定的なものになったのである。

さっき、「医者は人生を預かっている」なんて書いたが、私の人生は、この事件により大きく変わることになった。

@傷跡と後遺症
当たり前だが、膝に穴をあけたのである。左足の膝には未だに傷跡が残っている。そして約2年間左膝を曲げなかったため、当分の間正座ができなかった。今も長時間の正座はできない。
A筋力の低下
約2年間、全くと言って良いほど運動が出来なかった。その後も、一定期間は運動が制限された。それまでの間は、小中と通して部活動等はほとんどしていなかったものの、運動能力の面では先頭とは言わないまでも常に平均レベル以上を維持していた。ところが、本件をきっかけに、間違いなく平均未満になった。挫折とは少し違うのかもしれないが、自分の実力が低下しているのを明確に感じるのは、かなりのショックだった。
B音楽
入院生活というのは、とにかく暇だった。夏休み中だったから、宿題なんかもあったけど、一日中しているわけでも無し、やることといったらTVと読書と音楽だった。特に音楽は、TMネットワークやB'zといった当時ニューミュージックと呼ばれていた音楽にはまった。B'zは未だにファンを続けているわけだから、15年以上これまでの人生の過半聞きつづけていることになる。
Cパソコン・ゲーム
親に言わせると、運動ができなくなったので、その代わりの楽しみにと買ってくれたのだという、パソコンである。最初はPC9800Eとかってパソコンだったと思う。98の出だしの機種である。大したゲームはできなかったのだが、それまでの間テレビゲーム等を一切させてもらえていなかった自分には何もかもが面白かった。

そういえば、その頃、自宅の建て替えがあった。自宅は平屋建なのだが、そこにプレハブを足した作りになっていた。そのプレハブを自宅と一体化して建て直そうというのであった。当初、二階建てにしようということだったのだが、占いか何かで、母屋よりも高くしてはいけない、ということになったらしく、結局一階になった。部屋は二つ、それぞれ私と姉に、ということだったらしいのだが、奥の部屋は姉に、手前の部屋は私と父の書斎となった。この辺りは猛烈に納得できなかった。姉は女性だから単独の部屋が必要、私は男だから父親と一緒で良いだろう、ということだった。無茶苦茶である。平等の精神が何も無い。奥の姉の部屋に行くには手前の部屋を通る必要があり、それだけでも嫌なのに、親と共用というのが納得できるはずが無い。この件では、かなり親と喧嘩もしたが、結局認められることは無かった。

中学でも、当然恋愛はあった。完全に片思いだったが、同じクラスのやはり大人しい感じの可愛い子だった。ほとんど話をしたことが無かったのに、誕生日にプレゼントをしたことがあった。うまく行くはずが無かった。かなり内気でオクテであった自分にはこれが精一杯だったんだろう。驚異的に恥ずかしい経験である。

さて、中学受験をして中学に入学していたので、その学校は高校へのエスカレーターが用意されていた。全学年の約3分の1は上がれないのだが、上位3分の2に入っていれば、そのまま高校に進学できるのである。中学2年生の時に学年2位という成績を取っていたことからも、当然のように高校にはそのまま進学できた。中学3年生で、少々成績が下がってきていたが、気にするほどの下がり方ではなかった。

5.高校生

中学生の間、とにかくいろんなことがあったのだが、高校での3年間は特にこれと言って特筆すべきことは何も無かったように思う。というよりも、とにかくどん底の3年間だった。

まず最大は、学力の問題である。中学では学力としては上位に位置していたのはこれまでの通りだが、中学3年で受験勉強をせず、少しずつ成績が低下していたこと、中学で成績下位3分の1が抜け、逆に受験に合格した人達が上位3分の1に入ってきたこと、等々がどういう影響を及ぼすか。高校に入った途端、成績が学年平均より下回るようになったのである。冷静に考えれば、学年の3分の1がスライドして賢くなったようなものなのだから、当然起こりうる事だし、それに発奮して勉強を頑張れば良いようなものだが、残念ながら、そうはならなかった。

これと同時に、中学3年の時の足の手術とリハビリもようやく終わり、高校になって少しずつではあるが、体育等にも復帰するようになった。そうすると、中学でも書いたが、常に平均レベル以上を維持していた筋力・体力が大幅に低下していることを、嫌でも認識せざるを得なかった。サッカー・水泳・柔道・・・何をやっても周りよりも劣っている。これも冷静に考えれば仕方ないことだし、それを取り戻すために頑張ればいいようなものだが、これまた残念ながらそうはならなかった。

学力面・体力面双方で、まさに挫折を味わったといえる。冷静に考えれば、挫折と感じるほどのことではないのかもしれないが、生まれてからほとんど挫折らしいものを経験していないだけに、そうしたものに対する免疫がなかったということかも知れない。

普通であれば受験勉強でそれどころではない中学3年生の夏休みを使って入院をした。これは受験無しで高校に上がれるという確証を得られたからこそできたことだったが、このタイミングもある意味悪かったのかもしれない。リハビリ等が終わって、復帰するのは、高校に入ると同時。これは狙ってこのタイミングで手術をしたということなのだが、そのお陰で、学力と体力の双方で同時に挫折をすることになった。

その中でも、問題はやはり学力である。体力面は、いくら挫折をしても、少々からかわれたり、バカにされたりすれば済む問題であるが、学力面は大学受験が控えているからである。特に数学と物理化学だった。授業のたびについて行けなくなっていく自分がいる。授業についていけないという経験が無いため、ほとんどパニックである。自分の中で焦りが生まれる。その焦りが他の授業にも波及する。国語・英語・社会でも注意力が散漫になる。定期テストの成績は下降の一途をたどる。最悪な悪循環である。

原因はいろいろとあった。まず、そんな時期にゲームにはまっていた。こう書くとあまりにも不謹慎に思えるが、とにかく面白かった。ゲームの内容については後述する。それから引き続き音楽もよく聞いた。好きなアーティストが出ているラジオもよく聞いた。「オールナイトニッポン」始め、深夜ラジオも聞いた。それから遅ればせながらお笑い番組もよく見た。特にダウンタウンはこの頃から好きだった。親としては、自分の部屋を与えたが為にこんなことになってしまった、と思っているようだった。親からの締め付けもどんどんきつくなった。そうしたことへの反発も手伝った。特にゲームなどは、もっと小さい頃にやっていれば、高校生にもなって、はまる事は無かったと思う。すべてを親のせいにするつもりは無いが、小さい頃から勉強やそれに類することに縛り付けることは害のほうが多いように思う。

ここまで書いたから、結末まで書いてしまおう。高校の前半は予備校に通った。ところが、予備校というのは自ら勉強する意思が無いと、授業をサボることもできるし、受けても先生が一方的にしゃべっているだけになる。全くと言って良いほど、意味の無いものだった。そこで、高校2年生の後半からは、塾へと切り替えた。そんなに大きな塾ではなかったのだが、割と評判のいい塾だった。先生は大学生がほとんどだったが、受験のテクニック的なものから、学校の授業の補完まで、割といい塾だったと思う。それに加えて、さすがにこの成績ではまずいと思う自分自身がいた。特に高校3年生になってからは、本気で勉強するようになった。それでも模擬試験等では志望校の合格率E(20%程度)とか、そういう成績が続いていた。自分としては、とにかく浪人はしたくなかった。姉が1年浪人生活をしていたが、自分がそれをやって成績が伸びるとは思えなかった。入れる大学に入りたい。大学の銘柄はどこでも良い。それくらいに思っていた。

ところが当然親はそう思っていなかった。将来は父親を継いで「先生」、または「公務員」を目指すのよね?と、明確にそう言われた事があったかどうかは分からないが、明確な無言のプレッシャーをいつも感じていた。まずは、そういう親を納得させられるレベルの大学に合格しなければならない。そういう親とは裏腹に、自分としては、先生は向いていないと思い始めていた。小学校の欄でも書いたが、とにかくあがり症なのである。学生の前で授業をするなんてとんでもない。それに、人に教えるというのは自意識過剰なくらいで無いと無理だと思う。私の場合、いろんな考え方があるから、どれも間違いとはいえないね〜、ってなってしまって、授業にならないような気がする。そんなこんなで、その頃から、先生になるつもりはほとんど無かった。

大学受験は、年明けのセンターテストから始まる。直前の模擬試験でも500点(800満点)を切るくらいの得点しか取れず、ほとんど運を天に任せるようなものだった。ところが、奇跡というのは起きるものである、数学で、今まで取ったことがない満点を始め、各教科でこれまでなかったような得点が取れたのである。結局、答え合わせをした得点は、確か677点。模擬試験ではありえない得点であった。マグレと言ってしまえばそれまでなのだが、本番でマグレが出たのなら結果オーライである。

この得点であれば、阪大(大阪大学)を目指すことも可能なレベルだったが、とにかくマグレであるここから無理をする必要は無い。市大(大阪市立大学)を選んだ。これまでの成績から言うと、市大も入れそうに無い大学だったのだから。また、教員免許を取れる大学でもあった。だからといって、文学部なんかに入ってしまったら潰しが効かないから、ということで、商学部を選んだ。先生は向いていないし、公務員は自分の好きな仕事ができないようなイメージがあったから、どちらかというと、経済社会に出て仕事をしたいという漠然とした思いがあったのである。

こうして、挫折から始まった高校3年間は、何とか終焉を迎えたのだった。

さて、高校生活では勉強ばかりしていたわけでは決して無い。自らの人生に大きな影響を与えているのは、やはりゲームだろう。ゲームについては、これまでほとんど触れてきていないが、いわゆるテレビゲームというものは一切買ってもらえなかった。中学の時に、友達の家に遊びに行って、ファミコンやMSXというゲーム機で遊んだのがほぼすべてであった。中学の時に友達の家で遊んで、とても面白いと思ったのが、「信長の野望」であった。戦国時代の1大名になって、内政や外交を繰り返し、戦で隣国を切り取っていき、最後は日本を統一する、というゲームである。高校になってからは、この続編・続々編等を購入し、寸暇を惜しんで遊んだ。高校時代にゲームにはまってしまったのは、実害もかなり大きかったが、こうしたゲームは実利も多いと思う。実際の歴史を追認できるし、感情移入することにより、より身近に感じることができる。また、全国を統一するという大きな目的に向かって、今なすべきことを考える、つまりマクロからミクロを見る視点が身につく。現在の歴史好き・城好きは間違いなくこうしたゲームが産んだものだし、マクロからミクロを見ることはどれだけできるようになったかは分からないが、ビジネス上も役に立っていると思う。

友達も、高校ではゲーム友達が多くなった。中学からの友達との交友がなくなったわけではなかったが、やはり興味がある友達の方が一緒にいることは多くなる。そうした友達の家に遊びに行って、丸一日かけて信長の野望や水滸伝といったゲームを複数人でやったりした。コンピュータ相手では、当たり前だが相手にならないので、友達同士で対戦すると、全く違った面白さがあるのである。

結局、高校生活は、勉強・運動ができない、かつゲームばっかりやっている、傍から見たら駄目な暗いやつくらいなものだろう。そんな人間が恋愛をしてうまく行くはずも無い。やっぱり高校でも恋愛はうまく行かなかった。前半は、中学の時に好きだった子をそのまま好きだったが、後半は同じクラスのよく話をした明るい子を好きになっていた。ようやく話をして、ある程度相手のことをわかってから好きになるようになってきたのである。それでもやっぱり告白することはできず、卒業してしまった。卒業式の翌日とかに、勇気を出してその子に電話をした記憶がある。結局世間話をしただけだったのだが、これまた恥ずかしい思い出である。

そういえば、修学旅行には北海道に行った。ファームで馬なんかに乗った写真がある。赤ら顔の太った学生である。モテル訳は無い・・・

6-1.大学生(1〜2回生)

入学式に行って、まず驚いたのが警備の物々しさだった。学生運動が活発な大学だったらしく、盾を持った警備員が校門を固めているのである。そういうものか、と驚いた記憶がある。入学式が終わると、学部毎に説明会があり、教科書なんかを購入する。その後、外に出てくると、部活動とサークル活動の強力な勧誘が待ち受けている。これが大学ならではなんだろう。興味を持ったのが、ボート部・テニス部・軟式野球部・テニスサークルの4つだった。

とりあえず体験してみて、というのが常套句だったので、とりあえず一通り参加してみることにした。まず、ボート部。川に行って、何人か並んで、漕がしてもらう。思ったよりもうまくできた。体を鍛えて、これの精度と力を上げていくという。ど根性物語だと思い、やめる事にした。次にテニス部。ラケットを貸してもらって、簡単な練習に参加させてもらう。思ったよりも難しくない。打つことは楽しいし、奥も深そうだ。ただ、先輩を見ていると暗そうな人が多い。テニスに明け暮れて大学生活を終えてしまうのは嫌だった。

次に軟式野球部。小さい頃からの夢だった野球である。硬式野球というのも選択肢にはあったが、最初から甲子園組がいたりして、私なんて全くお呼びでない状態だったので、軟式にしたのである。体験してみて、もう少しやってみたい気持ちがあった。それで、入部することにした。割と真面目に練習に参加した。でもそれまで野球というスポーツはほとんどやったことが無かった。バッティングセンスがなく、フィールディングが悪く、コントロールも良くなかった。結局、守備はレフトで決定、打順には話がならない状態だった。入学した年の夏の合宿。和歌山の白浜温泉近くの球場を借りて、練習を行った。約1週間だったと思うが、結構きつかった。なかなか練習をさせてもらえなかった。ボール拾いと守備練習がほとんどだった。1年なのだから仕方ないと思って頑張ったが、周囲とのレベルの差は明らかであり、少しずつ情熱が薄れていった。基礎体力がないというのはやはりきつかったのだろう。残念ながら、1年と経たず、退部してしまった。

そして最後のテニスサークルである。結局こういうところに落ち着くことになった。テニスサークルというと、テニスなんかしないで適当に遊んでいるような団体も多かったが、入ったサークルは、比較的真面目にやっているサークルだった。とはいえ、テニスサークルに入っていれば、うまく行けば彼女が出来るかも、というような甘い観測が無かったわけでもない。構成員の中には、近くの短大生の女の子も数人入っていたし、やはりテニスだけに男女比率は1:1に近かった。

テニスは本当に面白かった。結構レベルの高い先輩が何人かいて、教えてもらったり、雑誌を読んだりして、試行錯誤しながら練習した。ある程度自己流だったが、そこそこのレベルにまではなれたと思う。同学年では、技術レベルは負けていないのに、試合をすると負けるという人間が何人かいた。度胸と慣れと体力が足りなかったのだろう。サークル対抗戦等にも何度か出たが、やはり勝てなかった。それでもテニスの面白さを理解したのはとても大きかった。その後も、テニスは最も好きなスポーツでありつづけている。

ところが、サークル自体は2年生の途中から面白くなくなってきていた。最大の要因はテニス以外での活動である。練習の後、合宿の夜、等々に繰り広げられる限度を超えた飲み会。何かゲームをして、負けたら「イッキ」である。そもそも、下戸の私にとって、拷問以外の何者でもない。もちろんすぐに酔いつぶれてしまって、寝てしまったりしたのだが、そういう状態が続くと少しずつ居場所がなくなってきたのである。もともとが内向的なタイプでもあり、それを跳ね返すだけのキャラクターも無かった。

これに輪をかけて、恋愛が絡んだ。二年生の秋、一年生の女の子と付き合うのどうの、という話があった。少しの間付き合ったのだが、双方しっくりこず、結局すぐに分かれてしまった。だからという訳でもなかったのだが、何となく顔を出す回数が減っていき、サークルは辞めてしまった。

さて、勉強はというと・・・大学のことだから、ご多分に漏れずそんなにやらなかった。同学年で言えば、中の上というところだろうか。英語と第二外国語(中国語)、それから商学部だけに簿記、真面目にやったのはそれくらいだろうか。どの授業を取るかというのを学期初に決めるのだが、その時に「出席必須」「テスト重視」「両方重視」「結構落とされる」「楽勝」といった評価がいろいろな噂で聞こえてくる。それを元に、卒業に必要な単位を取っていくのである。出席が必須の授業では、どう見ても来ていない人間が出欠を取ると返事をしているということがある。「代返(ダイヘン)」である。私はダイヘンをお願いされることが多かった。テスト重視の科目はテスト直前になるとノートのコピーが学生を駆け巡る。孫孫コピーくらいになると字がつぶれて読めなくなりつつあった。まじめにノートを取っていた人間にとってみれば、迷惑な話であるが、私もかなりお世話になった。前日にそれを詰め込んでおけば、単位が取れた。

教員免許についても、最初は本気で取るつもりだった。ところが、教員免許だけに免許を取るために必要な講義には文学部の講義が多く、商学部の講義とかぶってしまうのだ。それに、思った以上に必要な単位が多く、商学部の単位を揃えていきながらそちらの単位も取っていくことは想像以上に難しかった。それでも1年の時はいくつかの講義を受講していたのだが、問題はテストである。商学部ならいろんなツテでノートのコピーとかがまわってくるのだが、ほとんどは文学部の講義である、そういったものが回ってくる訳も無い。実際のテストに当たり、卒業に必要な単位である商学部のものと、教員免許に必要な単位である文学部のものと、どちらを優先するかというと、当然前者になるわけで、後者の単位はなかなか取れなかった。結局、必要な単位数の1割にも満たない時点で、4年間で免許を取ることは不可能と判断せざるを得なかった。では大学にさらに1年在籍して、無理やりにも教員免許を取ろうと考えたかというと、そうはしなかった。元々、先生という職業に向いていないと思っていたし、姉が教員免許を取って先生になろうとしたところ、実際に先生になる試験のレベルが異常に高く、その試験に通っても順番待ちだという話を聞いたからである。親に対してもそうした状況を説明し、何とか理解を得たのであった。

そうそう、大学生というとアルバイトだが、ほとんどが家庭教師だった。相手をどうやって見つけたかというと、地域新聞の告知欄に載せたのである。1行2千円という具合に販売をしていたので、そこに掲載をして探した。大学でも斡旋をしてくれるのだが、自宅の近くにはなかなか無いこともあり、そういう手段をとった。全く期待はしていなかったのだが、結構反応があるもので、それを見て電話をくれた人は延べ10人近かったのではないだろうか。その内、5人ほどの勉強を見た。同時に見たのは最大で3人だったが、それでもかなり大変だった。対象は小学生から高校3年まで。高校3年なんて年にして1〜2歳しか離れていないのである。自分の高校生の時の成績から言って、偉そうに教えられる立場ではないのであるが、自分で勉強するのと教えるのとは全然違うもので、何とかはなった。ただ、その高校3年生は結局合格できず、一浪してから合格したという話を後で聞いた。
同時に3人を見ていたときなんかは、週5日とか見に行っていたが、その代わりバイト代はかなりなものだった。月10万円を余裕で超えてしまうのである。週5日とはいえ、夜7時〜9時に拘束されるだけであるから、かなり有利なアルバイトだと思う。ただ、その時間誰とも遊べないという状況は、それはそれでかなりな問題があり、そんな状況を長くは続けなかった。

金銭面だけを見るとやはり家庭教師に軍配が上がるのだが、それだけだと何だか面白くなかった。社会経験とか、またはいろんな出会いとか、そうしたものも欲しかった。今考えてみると、そういうものを求めるのであれば、コンビニとかファミレス、ファーストフードとか、いくらでもありそうなものなのだが、家庭教師をやりながらだと難しかったんだと思う。家庭教師以外にやったアルバイトは、「甲子園球場の売り子」と「模擬試験の監視員」位だった。どちらも、社会経験にも出会いも何にもなりゃしない。もう少し計画的に考えられなかったものか・・・今言っても仕方ないが。

甲子園の売り子は、阪神線のデーゲーム・ナイターで、アイスモナカを売るというものだった。ビールとかだったらもっと売れたんだろうけど、たまたま選んだ業者がモナカだった。それでもニーズはあるもので、そこそこ売れた。阪神ファンの人はやっぱりおもろい人が多くて、楽しかったし、物を売るということ自体も面白かった。さらにタダで阪神戦が見れるのである。こんな美味しいバイトは無い、と思ったが、問題は「交通費が支給されない」「猛烈に疲れる」。自宅が大阪南部であるから、甲子園球場までの交通費はバカにならない。阪神線を見れるのだから、と言っても、バイト代の結構な割合が交通費で消えていくのは辛かった。それから、ゲームの間約3時間、ひたすら階段の上り下りをするというのは、想像以上に疲れることがわかった。最初にこのバイトに行った時は、3日間ほど足の筋肉痛に悩まされた。2回3回と行くに連れて、そうでもなくなってきたが、シーズンが終わると同時に、このバイトも終息していった。

模擬試験の監視員のバイトはものすごい楽なバイトだった。中高の受験生が模擬試験を受けに来る会場に行って、教室の前でただ立っているだけで良い。要はカンニングとかを見張るわけだが、模擬試験だからカンニングしても仕方ない訳で、そんなやつはいない。ただいるだけで良いというバイトである。一日拘束されるが、バイト代も比較的よかった。問題は模擬試験が無いとそんなバイトは無いわけで、定期的にあるものではないということだった。常に探さないと見つからない。結局このバイトも2〜3回行ったが、それで止めてしまった。

そんなこんなで、バイトでお金をためて、何をしたかというと、旅行である。それまで海外旅行というものに一度も行ったことが無かったので、何とか一度、ということで安いツアー旅行を探し出し、親友の高橋と二人でロンドン・パリ・ローマ5日間という旅行に参加してみた。感想としては、ヨーロッパはかなり面白そうだが、ツアー旅行ではゆっくり見れないし、行きたいところに行けない、ということだった。とりあえず海外旅行というものを経験できただけで今回はよしとし、次は自分達だけで行こう、ということで、計画を練ることにしたのだった。

そうそう、大学2回生の時には運転免許を取った。バスで教習所まで通ったが、2〜3ヶ月で取ることができた。聞くところによると、その次の年から道路交通法が改正となり、より多くの単位を取らないと免許を取得できなくなる、ということだった。私の時は高速教習なんてものもなく、あっさりと取れたイメージだった。免許を取ったら車に乗りたいのは当然の心理だろうが、父親はなかなか貸してはくれなかった。買うというと、猛烈に反対された。自分の金で買うと言っているのにそこまで反対する理由がわからなかった。危険だし、事故が心配だということなのだろうと思うが、ただ反対するだけでは子供としても理解できない。この事でも随分親とは喧嘩をした。過去も現在も、親との喧嘩で、自分が納得して終わったことはほとんど皆無である。

6-2.大学生(3〜4回生)

卒業までに必要な単位の8割以上は2回生までで修了した。3回生からはゼミが中心となる。一人の教授・助教授について、特定の分野の造詣を深めるというのが主旨である。私は、「企業形態論」というものを研究していた助教授のゼミに入った。正直なところ、2年までの授業の中で、とても興味を持つまでに至った科目は一つも無かった。私の入ったゼミは、「企業形態論」ということになってはいたが、担当助教授は一人一人が興味を持ったことをかなり自由に研究させてくれるという前評判だったのだ。

入ってみると、4回生はかなり多く(十数人)在籍していたが、我々3回生は男4人・女2人という少人数だった。男の内、一人はテニス部で忙しくサボリ気味、一人は大学以外のところで忙しいらしくこちらもサボリ気味、ということで、たいていゼミは助教授の部屋で学生は4人という状況だった。前評判どおり、その助教授は何でも各人のやりたいようにやらせてくれた。当然、課題等もあって、そうしたことの発表もあったが、基本的には卒業論文に向けて、興味を持てることを探しなさい、というスタンスだった。

結局、このお陰で私は電子マネーというものに興味を持ち、卒業論文を書き、そうしたことがきっかけで今の会社に入った。その点ではこの助教授には大変感謝しなければならない。ただ、課題や卒業論文の過程において、建設的な議論を交わしたり、役に立つ助言をくれたりということがほとんど無い助教授であった。ただ客観的に見ているだけなのである。自由に研究ができたという点では本当によかったと思うが、より自分が成長するためには、そういった要素もあって欲しかった、というのが正直なところだった。余談だが、先日ゼミの女の子の一人に会った際、助教授が亡くなったという話を聞いた。確か心臓発作か何かだったと思う。かなり酒を嗜む方だったから、その辺が良くなかったのかもしれない。ともあれ、とてもお世話になった先生である。ご冥福をお祈りしたい。

卒業論文・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/shou.html

3回生の前期が終わると、ゼミ以外にはほとんど大学に行かなくていいという状況が見えてきた。そこで、先ほどの旅行の計画を始めた。ほとんどできないとはいえ、最も分かる外国語といえばやはり英語である。ヨーロッパで英語というと、やはり「イギリス」という結論になる。どうせ行くのなら、一周してしまおうということで、夏休みの約1ヶ月をかけてゆっくりとイギリスを一周することとした。バックパックを買って、洗濯用具などを詰め込み、宿の予約など一切せず、自分達の力だけで回ろうというのである。はっきり言って、本当にそんなことができるのか、半信半疑であったのだが、行ってみれば何とかなるものである。特にイギリスはそういう観光客を受け入れる素地ができていて、ある程度大きな駅に降りるとすぐに「B&B」という看板が目に入る。駅の前にはそういう観光客めがけて、「ホテル紹介するよ〜」てなことを言っている。スーパーマーケットはとても分かりやすいし、フィッシュアンドチップス(イギリス独特のファーストフード。魚のフライとフライドポテトがセットになっている。)も全国で売っている。全般的に物価は安い(ロンドン以外は)し、季節も日本に非常に近い。最初の数日間こそ、時差等の疲れからぶっ倒れたりしていたが、その後は非常に快適で楽しい旅行ができた。印象に残っているのは、各都市にある大聖堂と城、そしてスカイ島。大聖堂と城はとにかくどこの都市にもあるイメージ。大聖堂は、見る人が見ればすごさだったり違いだったりがわかるんだろうが、仏教徒である我々にはよく分からない。とりあえず入って、ふーん、って出てくるのが精一杯だった。これに比べると、城は面白かった。たまたまウィンザー城のような広大豪華な城郭から、ドーヴァー城やエジンバラ城のように巨大堅牢な城郭、そしてリーズ城のように可愛らしい城郭(実際に「世界一可愛らしい」と言われているらしい)まで、とにかく飽きることが無い。この経験が、後でお城巡りに目覚める最初のきっかけだったかもしれない。それからスカイ島。スコットランドの北の果てにある島で、最後はフェリーに乗らないと行けない。行くのにはかなり苦労するんだが、その途中の電車からの風景やスカイ島の雄大な自然には非常に感動した。行くまでが大変だからこそ余計に感動するのかもしれないが、ここは本当によかった。

イギリス旅行・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/trip_e_1.html

この旅行の間もそうだったし、その前後でもそうだったが、いろいろと考えていることがあった。もう社会人になろうとしているのに、本当に自分ですると決めて、したことがあっただろうか?そんなことでいいのだろうか?親がそれをさせてくれなかった部分は多分にある。よく線路が引かれていて、その上を進むだけだ、というような言い方をするが、それに近いものがあった。でもそれだけだろうか。自分自身も甘えというか、弱さがあったんではないか?かなり悩んでいた。旅行から帰ってみても、大学は忙しくないのである。とにかく時間はいくらでもあった。悩む時間はいくらでもあった。

そうして、今度は沖縄に一人旅にでることにした。泳ぎにではない、12月である。何をしに行ったわけではない、沖縄には行ったことが無かったし、いろいろと本土とは違うところがあると聞いていたので、一度行ってみたかった。そして、いろいろ考えて、答えが見つからないまでも、何か見えてくればいい、そんな旅だった。何も決めないまま沖縄に降り立つ。12月だというのに寒くない。長袖一枚で充分である。非常に快適で驚いた。そして、何の気なしに首里城に行って、と観光を始めた。首里城の土産屋で、「琉球三国志」という本を見つけ、購入した。2,3日、その本を読みふけって過ごしたのだが、その内、そこに出てくる城をめぐりたい気分になって来る。そして、行程の半分以上を城巡りに充てることとなった。結局、約1週間をかけて主要な城はすべて回った。何となく、自分でコンセプトを決めて、自分のしたい旅行にできたような気分で嬉しかった。これで答えが見つかったわけではなかったが、少し光明が見えてきたような気がした。

沖縄旅行・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/trip_j_okinawa.html

さて、今度は本気で自分探しの旅をしないといけない時期になった。就職活動である。4回生になる年の年明けくらいから活動は始まりだす。資料請求のハガキを出し、資料が来たら中身を見て、興味を持った会社の会社説明会に行く。そしてテストや面接が始まる、というイメージである。自分がどうしてこの会社に興味を持ったのか、そして自分はどういう人間で、この会社にどう向いているのか、そういったことを説明できないといけないのだ。その為には、自分がどういう人物だ、ということを、きちんと自分で把握していないといけない。これは思ったよりも難しかった。それくらい、自分の意志を持って生きてきていなかったということだろう。でもさっきの旅行といい、この就職活動といい、自分を見直すいい機会になった。少なくとも、卒業論文で考えていた分野に興味があったから、関連する業界を中心に回ることとなった。志望動機は完璧である。あとは自己アピールである。これまでの通り、内気で気が弱い面が短所ではあるが、全体観を俯瞰できる、継続性、真面目さ、等が自分の長所ということになるだろうか。結局、あるシステム会社と入社した会社と、4回生の6月に2社から内定をもらうことができた。就職氷河期と言われてすでに数年が経っていたから、2社から内定をもらえたというのはまずまずではなかったかと思う。

実は、就職活動と平行して、公務員試験の勉強もしていた。試験はいつ頃だったか覚えていないが、大阪市・堺市・国家公務員二種の3つを受験したような気がする。結局全部落ちてしまった。にわか勉強だったということもあるし、受験人数に比べて採用者はかなり少なかった。狭き門だったのだろう。市役所はコネが無いと絶対受からない、というような噂もあった。これはあくまで噂だとは思うが、狭き門であるため、そんな噂も流れたのだろう。私としても、できる限りの事はしたと思うので、親も何とか納得したようだった。

さて、就職活動で、もう一つ趣味ができることになった。インターネットである。パソコンは前述の通り中学3年生から所有してはいたが、ほとんどはゲームにしか使われていなかった。大学に入ってからは、ゲームもあまりしなくなっていたため、実際には動いていない状態だった。ところが、我々の頃から、就職活動にインターネットが活用されるようになり始めた。内定をもらったシステム会社は、何度かメールでやり取りをしてから面接に移った当時ではかなり先進的な採用方法だった。そんな時代でもあったから、とにかくインターネットに接続できる環境を、ということで、その頃ようやく出てきつつあった月額固定料金のプロバイダに入ったのだ。月2,600円とか、それくらいだったと思う。ダイヤルアップ接続で、電話料金は別だから、今から考えると隔世の感があるが、当時としては画期的な安さだった。

最初は就職活動に利用したものの、そう長期間使うものでもなく、あとはいろんなページを見るようになったが、まだインターネットが充分に普及していない時期であり、大手企業のホームページでも稚拙なページが多かった。インターネット関連の雑誌や本を買って読んでみたが、そこでホームページを作ることはそんなに難しいことではないことを知る。何となく「プログラミング」と同じように、手が出ないものというイメージがあったのだが、そうではないと。それであれば、作ってみようかと思いついた。

ホームページを作るといっても、コンセプトが無いと作れない。どういったことを発信していくのか。発信できるだけの情報が無いとホームページは作れないのである。周りの人が知らない情報を自分が持っているとしたら何だろうか?そう考えた時、思いついたのが、旅行する中ではまっていた「お城」と、卒業論文で書いた「電子マネー」の二つだった。(この二つをあわせて「ページC&M」と名付けた)これに自己紹介のページをつけた3部構成でHTMLタグの本を片手に作ってみた。それが4回生の9月のことである。最初のページは本当に文章だけで、見る側の考慮は一切無いページだった。(このページもそうだが・・・)本当は写真をどんどん増やしたかったのだが、当時デジカメは高くて手が出ず、写真のネガを写真屋さんに持ち込み、CD−ROMに焼いてもらうというやり方で、少しずつ写真を増やしていくしかなかった。その後、お城のページを中心にリニューアルを繰り返し、今の状況に至っているわけである。

ページC&Mについて・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/c&m.html

さて、6月に内定をもらったのだが、10月1日に内定式というものが東京本社であるという。そこで、暇な大学生は考えた。数日前に出発し、途中下車を繰り返せば大阪から東京の間を観光できるではないか。観光と言っても、目指すはほとんどが城跡。安土城→観音寺城→駿府城→小田原城→石垣山一夜城→鎌倉と、3日間をかけて一人旅をした。ようやく自分の趣味のために、自分で考えて、といったことが地について来た。大学生にもなって、本当の意味での自立というものが全くできていなかったのだ、ということを今更ながら気付いた時期でもあった。

時期は少し前後するが、大学3回生の途中から、英語の勉強を始めた。海外旅行に行くのに全然「聞けない」「話せない」という状況を何とかしたかったし、就職活動を控えて、英語ができたほうが有利だろう、という打算もあった。かと言って、英会話学校に行くのは嫌だった。正直そんなもので話せるようになるものか、という気持ちもあったし、そもそもの性格が内気なので、恥ずかしさが先に立って、話せるようにはならないと思ったからでもあった。いろいろと教材を当たった結果、選んだのが、アルク社の「1000時間ヒアリングマラソン」。1年間、毎月教材とテープ2本が送られてきて、ひたすらそれを聞く。そのテープだけではなく、2ヶ国語放送のテレビニュースとか、同じく二ヶ国語放送でやっている外国のドラマとか、そういったものを一日3時間、それを1年間続けるというものである。就職活動の一環でもあったから、TOEICも受験してみたが、最初500点そこそこだった点数が、最終的には700点を少し上回るまでになった。1年間続ければ劇的に聞こえるようになったりするかと、そんな期待は見事に裏切られたのだが、それでもその得点を見ていると成果はあったのだろうと思う。

大学生活も残り少ないと言うこともあって、最後の半年間は旅行ずくめであった。12月後半の半年間を使って南ヨーロッパを周遊。イギリスの時同様、何も予約せず、ユーレイルパス(期間内ヨーロッパの鉄道乗り放題の券)だけを持って、鉄道でポルトガル→スペイン→フランス→イタリアと回ったのである。イギリスの時は1ヶ国だけだったのだが、こうやって複数国を回ってみるとやはり国毎の相違は大きく、非常に面白かった。

南ヨーロッパ周遊旅行・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/trip_e_2.html

1月末には2日間の愛知三重城巡り旅行をした後、2月には約3週間をかけてギリシャトルコの旅に出かけた。ギリシャの遺跡と素朴な人柄が妙に印象に残っている。とにかくどこに行っても遺跡遺跡である。というよりも、観光できるものは遺跡だけなのだろう。行くところすべて同じような遺跡で、だんだん飽きてくるのは仕方ないことか。その遺跡の中でも最も有名なのは「パルテノン神殿」だろうが、ここが従業員のストのため、見学することができなかった。アテネには数日間いたので、毎日通ったのに、一日も開いていなかった。これだけ長期間ギリシャに行って、パルテノン神殿を見ていない人間は珍しいのではなかろうか。でもそれ以外の場所でも博物館やら何やらがストで入れない、ということが何回かあった。また、お昼過ぎから夕方まで閉まってしまうということもよくあった。シエスタといって、昼寝の時間なんだそうだ。そういうお国柄なのだろう、そこにいる人も素朴な人が多かった。そして、ギリシャは英語を解さない人が予想以上に多い。田舎に行けば行くほど全く分からない、という人に多く出会った。自分たちの方が英語が分かる、という不思議な感覚だった。
前回の旅行はEU内の移動だったから出国入国と言う手続きは簡単なものだったが、今回はEUから外に出るということで、結構大変だった。さすがに車掌は英語を分かってくれたので、何とかなったが、トラブルもあって冷や汗をかいた。入国したトルコでは、イスタンブールを観光したが、日本語を話す怪しげなトルコ人が一杯いて、またホテルでお湯が出なかったりと散々だった。トルコはあまり良い思い出が無い。

ギリシャ・トルコ旅行・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/trip_e_3.html

いずれにしても、遅ればせながらようやく親離れができたのが大学時代と言えるかもしれない。よく大学時代は全然勉強しない無駄な時期だという論調のものを見かけるが、それは明らかに間違いだと私は思う。私にとっては、自立をするために絶対に必要な期間だったし、自ら勉強しようという気持ちを生み、一生の趣味を得る貴重な4年間だった。もちろん、ただただ遊びまくって自分で勉強することも趣味も得られない人もいるかもしれない。それはその人の勝手であり、それは仕方ないものだろう、とも思う。

7.入社(大阪支店)

東京本社で約1週間の新人研修の後、緊張の初出勤。とにかく何もかもが初めてで戸惑うことばかりだった。最初の壁はやはり電話。お客様からかかってくる電話をとりあえず取って、勉強しろと言われるのだが、分からないことばかりで、お客様に怒られてしまうこともしばしば。当たり前だが、言葉遣いもこれまでのようにはいかない。半年間くらいは、とにかくがむしゃらに吸収しただけだったように思う。一応営業だったから、その後は少しずつ自分でも営業をかけていくようになったが、獲得できた時の達成感・充実感は何とも言えないものがあった。

正直言って大学でののんびりした生活は充実感を感じにくかった。というか、何をしたらいいのかわからないという状態が結構あったのだ。何かやらないといけない事があるのは、しんどいようだが楽でもある。何をしたらいいのかわからない不安に比べたら、断然気楽である。自分で何をするか決めて、目標を立て、それを遂行してようやく充実できる。他人から与えられるとできることでも、それが大変なことであるほど自分で決めてそれをやり遂げることは難しい。

もちろんそれができたときの達成感は他人から与えられて達成するときとは雲泥の差であろう。社会人になると、他人から与えられた目標があり、それを達成する充実感を味わいながら、自分でその隙間で目標を立てて達成することができる。もちろん達成できないことも多いし、挫折感を味わうことも数多いのだが、それでもそういう機会が多く与えられる。日々仕事が楽しくなっていく時期であった。

さて、彼女という存在がいない状態で入社したのであるが、入社早々、同じ支店にいた同期の女性から、友達を紹介してもらうということがあった。何度かデートをしてみたのだが、双方しっくりこず、結局付き合うには至らなかった。ところが、もっと身近にそういう存在がいたのである。それは京都営業所に勤めていたこれまた同期なのだが、同期旅行に行ったりする中で意気投合し、何となく何度か一緒に出かけるようになった。最初はそんなに意識せずに出かけていたのだが、その内そういうことかと思うようになり、付き合うことになった。とにかく堅い付き合いではなくて、とにかく肩の力を抜いて付き合うことができる存在で、よく言うところの空気のような存在だった。一緒にいることが楽しくて、というよりも一緒にいることが自然で、そうでないことが不自然だった。付き合って約1年半で自然と結婚について考え始め、その1年後、婚約、結婚準備を始めた。

結婚式は5月14日を予約した。入社して3年余ということになる。3年というとそろそろ異動の発令が出てもおかしくない時期ではある。だが、入社して4年大阪支店にいる先輩もいる、大阪支店で5年間いる先輩もいる、そういう状況だったから、まさか自分が異動するとは思っていなかった。3月に招待状の手配、家具家電の購入、賃貸の契約、等々出来るだけの準備をした。ある程度落ち着いてから実際の式の準備をしないと大変だろうという理由からだった。

ところがその「まさか」だった。4月の発令で、私が本社に異動というのである。それまでの人生で最もびっくりし、衝撃を受けた日だった。結婚を目前に控え、東京本社に異動になったのだ。3月31日支店で納会があって、その準備をしている時だった。支店長と、車で買出しに向かう道すがら、「異動や!」と言われた時のことは、一生忘れないだろう。その後はもう呆然と車を運転し、呆然と買い物をし、呆然と支店に戻った。

当時、京都営業所は無くなっていて、奥さんになる人は同じビルで働いていたので、まずは報告をした。私以上にカミサンの方がショックを受けている様子だった。自分は、その内東京に異動になることは分かっていたし、ある程度の覚悟は出来ていたのだと思うが、さすがにカミサンはそこまでではなかったのだろうと思う。正直、気持ちを整理するのが大変だった。

でもまずは現実への対応である。急遽賃貸の契約を解約し、家具・家電製品の納品を止めてもらった。賃貸については、保証金を数十万円振り込んでいたのだが、もちろん、それは返ってこなかった。別に会社が嫌がらせをしたわけではないのだから、ひたすらタイミングが悪かったとしか言いようが無かった。

8.転勤(東京本社)

まずは家を探さないといけない。当面はホテル住まいをさせてくれるようだったので、その間に必死で探した。実家が都心から離れていて、とにかく不便だったので、出来る限り都心に近いところを探した。そうすると当然家賃は高くなるので、駅からは少々遠いところになってしまったが、何とか探し当てることが出来た。そうすると、次は引越しである。

引越しなんて、実は生まれて一度もした事が無かった。思った以上に荷物が多かった。でもゆっくり整理をしている時間はない。結婚準備をしながらの引越しなのである。とにかくダンボールにとりあえず詰め込んで、後で整理するという形を取った。

問題は家具・家電だった。家具はキャンセルできなかったので、引越し屋さんに家具の集配所まで取りに行ってもらった。家電は、関東まで送る術がないということだったので、キャンセルさせてもらった。本当に申し訳ないことをしたと思う。そうすると、家電を東京で買わないといけない。家電と言えば、思い浮かぶのはやはり秋葉原である。今は秋葉原も空洞化が進んで、と言われるが、特に大阪から出てくると、秋葉原に行けば安くならないか?と考えてしまう。大阪でも、日本橋で値切り倒していたから、どこまで安くなるかは大体分かっている。秋葉原に行って何軒か回り、同レベルの割引をしてくれるところで買うことにした。最初何軒か回ったときには、「そんな値段にはなりません」とけんもほろろに断られたりしたので、一瞬焦ったが、さすがは秋葉原、あるものである。大阪の値段に、さらに少しサービスをつけてもらって、買うことが出来た。一緒について来てもらった同期曰く、「大阪人はあくどい」だそうだ。大阪弁で言うと「えげつない」だろうか

さて、いよいよ引越しである。次々に運ばれてきて、部屋中がダンボールだらけになっていく。そして、家具。一つタンスがどうしても玄関から入らなくて、窓の格子を外して、何とか入ったというのがあった。引越し屋のお兄さんのてきぱきとした指示は感動した。普通のことなのだろうとは思うが、何しろ初めてである。何もかもが新鮮だった。そして、そうやってバタバタしていると、「新聞」の売り込みが来るわ来るわ。見ているものである。果ては、「物干し竿」まで売りに来た。そんなものなのだろうか。商魂逞しいとはこのことか、と思った。

カミサンはさすがに急に仕事をやめることが出来ず、6月末で辞める事にして、引越しが終わると大阪に帰っていった。さすがに寂しいというのはあったが、一方でこの初めての経験を楽しんでいた。楽しんではいたのだが、それをゆっくりと味わっている余裕は無かった。結婚式が目前に迫っていたからである。

ほぼ毎週土日は大阪に帰り、結婚の準備をした。東京に異動になったと言っても、その1月半後に結婚式である、さすがにすでに予約してあるのだから大阪で式をすることにしていた。式場・披露宴の予約やら、進行の手順、司会、引き出物、といったことはほぼ3月までに決めていたので、そんなにやることがある訳ではなかったが、もっと細かいこと。例えば、披露宴で流す曲だとか、親に渡す花束、出席してくれている人に配るプロフィール、といったものの準備があった。さらに、花婿は披露宴の最後に挨拶をしないといけない。これを考えて、暗記するという重要な仕事もあった。

9.結婚

結婚式の前日は、緊張のため寝つきが悪く、朝起きても何か呆然としたような状況だったが、とりあえず電車で式場へ。着いてしまうと、「はい、これやって」「はい、こっち行って」と、言われるがままに動いていると、披露宴まで終わっているという感じだった。とにかくバタバタとして、何が何だかわからないうちに終わってしまった、というのが正直な感想だった。そもそも夫婦揃って、ずっとみんなの注目を集める、そういう状況に慣れていないし、向いていないのである。その日は、本当にクタクタに疲れてしまって、ホテルに着くや、晩飯を食べに行った後は、速攻爆睡してしまった。

翌日から、私は東京に戻り、仕事だった。1週間仕事をした後、9連休で新婚旅行に行った。行き先はオーストリア。なぜオーストリア?とよく聞かれるが、「何となく」としか言えない。私はかねてからのヨーロッパびいきであり、ヨーロッパで行っていないドイツ・スイス・オーストリア辺りは行きたかったのだが、カミサンからもスイス・オーストリアという地名が候補に上がり、見事両者の意見が一致したのである。夫婦ってのはそんなものなのかもしれない。

しかし新婚旅行だというのにバックパックを買って、大学生の貧乏旅行のようなことをしたのはいろんな人に呆れられた。私は大学の時そういう旅行をしてとても楽しかったし、カミサンはそもそも海外旅行をしたことがないと言っていたので、そういう旅行をさせてあげたいという気持ちがあったんだろうと思う。ホテルだけは日本で予約していったが、後は全部自分達でやる、というスタイルも新婚旅行らしくない。新婚旅行で何かトラブルに遭ったりすると・・・ということなのだろうが、体力的にも精神的にも大丈夫だと思ったので、敢行することにした。スケジュールはかなりギチギチで、毎日ヘトヘトになったけど、とても楽しい旅行だった。こういう新婚旅行もいいものだと思う。

結婚・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/wed.html

さて、仕事はどうだったかと言うと・・・支店と本社との違いに驚くことばかりだった。支店では営業だったので、ほぼ8割方はお客さんを向いた仕事だった。ところが、本社では企画職。企画をいかに認めてもらって実現するか、8割方は上司や役員に向いて仕事をすることになった。慣れれば、もっとお客さんを向いた上で、企画をするということが出来るようになるのかもしれないし、一般的にはそうすべきなのだと思うが、そうはなかなか出来なかった。そうすると、書類の作り方も支店とは全然違う。本当に戸惑ってばかりだった。

そんなこんなで、夏休み。カミサンと北海道にでも行こうかということで、9月の少し混雑の和らぐ時期に2泊3日くらいで小旅行に出かけた。海の幸、海鮮丼を食べに行っても、カミサンはそんなに美味しそうではない。宿泊所のペンションに行ってもどうも元気がない。風邪でも引いた?もしかして子供でも出来た?なんて会話をしながら帰宅。妊娠検査薬を買って試してみるとやっぱり陽性。子供が出来たのである。正直ビックリした。周りではなかなか出来ないという人も多かったので、そうそう出来ないだろうと思っていたから。でも昔から子供と思い切り遊んであげられる若いお父さんになりたかったので、これは大歓迎だった。産婦人科に行って、きちんと確認をしてから、カミサンと幸せな妊娠生活を夢見て、本を買いに行ったりした。

ところが、思ったようにはいかないものである。本を買いに行った次の日から、ひどい悪阻(つわり)が始まったのである。少々は気持ち悪いものだとは思っていたが、ここまでひどいとは・・・しかもまだ1ヶ月とかである。巷では、3ヶ月になるまで妊娠していることに気付きすらしなかった、という人がいたり、出産まで一切悪阻が無かった、という人がいたりする。カミサンはずっと「不公平だ」とぼやいていたが、本当にそう思う。そこから約半年、家の中が『ドンヨリ』した雰囲気だった。さすがに気分の悪い人がいるのに、こちらが一人で騒ぐわけにもいかないし、そういう気分にもならない。夕食もなかなか作れないから、会社帰りにスーパーに寄って惣菜を買って帰ったりもした。一時は入院という話にまでなって、実際に一日入院して、点滴を打つまでになった。本当は1週間ほど、という話だったのだが、嫁が落ち着かないということで医者に行って無理矢理家に帰った。病気ではないのだが、半病人状態である。カミサンは本当に大変だったと思うが、そうやって苦労したからこそ、生まれてきたときの喜びはどんな人よりも大きいだろう。そう思って、何とか乗り切ったのだろうと思う。

悪夢の悪阻も何とか収まった臨月直前、出産に備えて実家に里帰りをすることになった。私は千葉で一人暮らしだったが、予定日の2週間ほど前に同期の結婚式があり、大阪に帰ることになった。ちょうどゴールデンウィークの初日4月28日が結婚式だったので、その日に大阪に行き、GW最終日の5月6日に千葉に戻るという予定だった。

10.長女誕生

結婚式の翌日、嫁が朝から微妙にお腹が痛い、と言い出した。そして、その日の夕方6時半ごろ病院に行き、なんと8時40分に出産。病院に入った時には、出産は日を越すだろう、という看護婦さんの見立てだったのだが、その予想は大幅に外れたことになる。一般的に、普通でも出産は数時間かかることが多く、難産だと10時間以上に及ぶこともあるという。ところが、病院入りから2時間あまり、分娩室では1時間いなかったと思う。超安産だったということのようだ。一応私も立ち会ったのだが、分娩室に入った時には赤ちゃんの頭が見えている状態で、間もなく誕生した。立ち会うと、「感動した」という人が多いが、私は「感動」ではなかったように思う。「父親になったという実感」と「誕生という神秘の再認識」と「母子共に無事だったことへの安堵」、そして「子供が生まれたことへの嬉しさ」が、ない交ぜになっていた。

子供・・・http://www.tims.jp/~choco/baby.html

考えてみると、ゴールデンウィークで私が大阪に帰るのを待っていてくれたようなものである。しかも、初日は結婚式で家にはいないわけだから、それも待って、世に出てきてくれた。本当に親孝行な娘である。もちろん、4月30日から5月6日までは休みな訳で、子供とベッタリ一緒にいることが出来た。5月4日に退院、5月5日にはお七夜、名前は夏純(かすみ)とした。4月生まれなのに夏というのは?という話もあったが、旧暦では4月は夏だし、初夏のような爽やかさが我々が好きだということだった。また、自分がひねくれてるからかもしれないが、子供には純粋に育って欲しい、そういう思いもあった。あとは「かすみ」という名前の響き、漢字の見た目、画数、等々によりこの名前とした。

1ヶ月健診を大阪で済ませた後、新幹線で千葉に帰った。この帰りもどうしようかかなり悩んだ末、結局新幹線の個室で帰った。その頃は比較対照がいなかったのでよく分からなかったのだが、どうもうちの娘は恐がりでよく泣くようで、とにかく人混みに長時間いることは不可能なのだ。そういう意味では、大阪東京間が約3時間の新幹線よりも実際に乗っている時間が1時間余りの飛行機の方がいいのだが、生後間もなくなので個室にしたのだ。千葉に戻って3人での生活が始まった。

11.マンション購入

さて、その時住んでいたマンションは当然賃貸だったのだが、会社が借り上げるという形態を取っていた。探したのは自分自身だったのだが、実際に借りたのは会社で、そこに私が住む。つまり社宅だった。当然家賃はかからないが、使用料として、給料から3万円が差し引かれた。ということは、3万円でマンションを借りれているわけで、非常にリーズナブルで、こんな良いことは無かった。ところが、世の中そんなに甘くない。社宅の期限は5年間と決まっていた。5年経つと、自分で借りるか、買うかしないといけない。最初はそうでもなかったのだが、少しずつその時どうしようかと悩み始めていた。それでも、妻と二人で住んでいる間はそんなに問題は無かった。割と近くにスーパーもコンビニもあり、至極便利だったからである。

ところが、妊娠して悪阻がひどくて病院に行こうと思うと、バスで行ける訳も無く、タクシー。子供が出来てちょっと出かけようと思っても、ベビーカーを押してほんの近所にしか行けない。少し遠出をしようと思うと、どうしてもバスと電車を乗り継ぐことになる。A型のベビーカーでバスに乗るのは想像以上に大変である。バスがすいていればそのまま乗せてくれる事もあるのだが、大抵は畳むことを要求される。子供を抱いて、かさばるベビーカーを持って、しかも立たないといけなかったりするともう地獄である。乳児と共に出かけるというのは、荷物も相当必要である。オムツを始め、ミルク、お尻拭き、タオルなどなど、そうしたものをずっと持ちつづけないといけない。時間が経てば経つほど、車が欲しくなった。車があれば、ベビーカーや荷物は積んでおけるし、バスや電車で周りに白い目で見られることも無い。

購入を真剣に考えたが、どうしても駐車場で断念せざるを得なかった。近隣の駐車場は大体1ヶ月15,000円というのが相場だった。家計を考えると、無理すればやっていけなくも無かったが、その他維持費を含めると無理は出来なかった。家を購入すれば、駐車場がついている場合がある。付いていなくても安価で借りられるのではないか。賃貸だと嫌なら簡単に引っ越せるというメリットがある反面、どれだけ住んでもそれが資産になることは無い。社宅期限が過ぎた後を考えると、マンションを購入しても、家賃とほぼ同額のローン返済額になる計算だった。早く購入すれば、ローンも早く返済できるはずだということもあり、少しずつモデルルーム等を回り始めた。

いろいろと考えたが、賃貸マンションに住んで約2年後、新築マンションを購入することに決めた。中古も考えたのだが、住みたい地域ではあまり値崩れしていないようだったし、駐車場がついていない。購入した新築マンションは、100%駐車場が付いていた。(といっても当然管理費に含まれているのだが・・・)子供は1歳になったところで、入居は1年後。この1年間も車がないのはきつかったが、何とか我慢した。その間、家のオプションをどうしようかとか、カーテンは買い換えるかとか、照明はどうしようかとか、入居に向けた準備をした。

そして再度の引越しである。前回は大阪から東京だったが、転勤に伴うものだったので、引越しにかかる費用はすべて会社持ちだった。今回は引越しと言っても2〜3キロの世界である。費用もそんなにはかからないと思っていたのだが、時期が3月末でかなり混み合う時期であったようで、かなりかかることになった。さらに、2度目だったがやはり引越しは疲れた。妻の両親にも手伝ってもらって引越し作業をしたのだが、終わった頃には全員が風邪気味になっていた。また、もうすぐ2歳になるという娘は、夜泣きをし始めた。生まれた当初は夜泣きもしていたが、そんな事は無くなって久しかったのに、再発である。やはり住環境が変わるというのは特に子供には大きなストレスなのだろう。

引越しの疲れが取れたかなぁ、と思った頃に、今度は夫婦揃って頭が痛くなった。話題のシックハウス症候群というやつかなぁ、なぞと言って臭い取りなんかを購入してしのいでいたのだが、なかなか良くならない。販売元に言っても、シックハウスの原因となるものはありません、の一点張り。結局、できるだけ風通しを良くして、乾燥させて、気長に臭いを取る以外には無かったらしい。2〜3ヶ月経つと頭痛も無くなっていった。

この時、子供は2歳前後だったのだが、遊び盛りである。家の中で車のおもちゃに乗って遊ぶだとか、フローリングの上で物を引っ張るだとか、日常茶飯事である。新築マンションだと、フローリングの傷は割と気になるのであるが、さすがにそれは1ヶ月もしないうちに慣れてしまった。それでも尚、ショッキングなことはあった。
あれは入居して1週間経つか経たないかの頃、空になった醤油か何かのビンで子供が遊んでいた。「危ないからやめなさい」などと言っていたのだが、その時「ガン!」と物音がして何かと見に行くと、何と扉にはめてあるガラスが割れているではないか。この時ばかりは卒倒しそうになった。
それからもう一つ。これは入居して半年くらい経った頃だったと思う。会社に妻からメールがあった。「ゴメン」何かと思うと、壁一面に落書きをしたのだという。家に帰ってみてこれまたビックリ。幅2メートルくらいに渡り、ボールペンで落書きがされている。鉛筆やクレヨンなんかだと、消す方法があるらしいのだが、ボールペンは不可能らしい。いろいろと試してみたが、いまだに残っている。今となっては、微笑ましい思い出にしようと思っているが、当時は再度卒倒しそうになった。

そして、自動車購入。長年の夢が実現した瞬間だった。動けば何でもいい、位に思っていたのだが、一応ネットとかでいろいろ調べて、60万円くらいの中古車にした。カローラスパシオ、ファミリーカーである。結婚してから約3年強、よく耐えたものである。車を購入して、やはり生活は大きく変貌を遂げた。特に土日、子供もある程度大きくなって、公園に行きたいと言えば、そこに連れて行ってあげられる。大きな買い物も割と簡単にできる。旅行だって行ける。本当に便利である、感動した。もちろん、自動車保険、税金、車検、金のかかることは多いが、駐車場という最大の難関を突破した今、この便利さを手放すことはもう出来そうに無い。

さて、新しい住環境にも慣れて来て、子供も2歳半になり、随分手がかからなくなってきた。そろそろ次の子でも?と思ったが、嫁にはあの悪阻の悪夢がまだ残っているようだった。それでも買い物に行ったりして、乳児を見かけると、また欲しい、と思っているようだった。私としても、子供にとっても兄弟はいるべきだと思ったし、もう一人いた方がより楽しい家庭になるような気がしていた。それにやっぱり男の子も欲しかった。そして二人の意見が一致した。

二人目はあんなに悪阻がひどくなることは無いやろう、と思っていたのだが、その観測は完全に外れることになった。本当に気の毒だった。上の子の相手をしないといけないので気が紛れるというのと、2回目だから何とかやり過ごす方法を身につけたというのとで、一人目よりは心持ちマシだったようなもので、ほとんど変わらなかったのではないかと思う。

予定日は10月23日、9月末頃には里帰りをした。一人目がすごいスピードで生まれてきたから、二人目はかなりさらに早くなるかもしれないから気をつけて、と病院で言われていたので、10月に入ったらすぐにでも生まれるのではないか、ということで、みんなそわそわしていた。でも兆候は無い。10月第二週目に3連休があり、大阪に帰ったところ、何とおしるしがあったと言う。さらに、破水らしいものがあったと言う。すわ出産、とばかりに病院に行ったところ、何と「高位破水」というもので、まだ大丈夫ということだった。
次の土曜日は、カミサンの従妹の結婚式があって、夏純もじいちゃんばあちゃんもみんな参加するために家を空けるため、何かあった時のためにということで、再度土日で大阪に帰った。土曜日は久しぶりに夫婦二人でショッピングをしたりお茶をしたり、デート気分を楽しんで、陣痛どころではなかったのだが、夕方から何となくお腹がキリキリ痛いと言い出して、とにかく何とか夏純を寝かしつけ、夜中に病院に向かった。

12.長男誕生

病院に着いたのは夜中1時を過ぎた頃だっただろうか、とりあえず入院しましょうということになったものの、痛そうではあるもののものすごい痛みでもなさそうで、どうなんだろうね、なんて話をしていた。そして3時過ぎ、分娩台が空いたからってことでとりあえず移動、少し待たされたものの私も入れてもらった。すると私が入ったときにはかなり痛そうにしていて、もう今にも生まれそうな状況だった。そしてAM4時28分、長男が誕生。(身長49.6cm、体重3,185g、血液型B型)長女に続き、長男もちょうど私が帰阪している間で、きちんと立ち会うことが出来た。本当に親孝行な子供達である。

今回は夏純の時と異なり、早めに病院に入ったということと、やはり二人目だったからだろうか、そんなにバタバタしなかった。気持ち的にも余裕があったのかもしれない。それでも実際に子供が出てきた時は、やっぱり感動である。一人目は「感動」ではなかったと書いたが、今回はかなり感動に近かったと思う。でもやっぱり安堵感のほうが強かったのは否定できない部分ではある。

キッズルーム・・・http://kt.sakura.ne.jp/~ksugi/kids200410.html

夏純の時はゴールデンウィークの前半だったから、GW中ベッタリ一緒にいることが出来たのだが、今回はそうはいかない。徹夜明けの日曜日の夕方、新幹線で千葉に帰らねばならなかった。入院は順調で、10月22日に退院、10月23日にはお七夜をした。退院は一緒には出来なかったが、お七夜は土曜日だったので再々度帰阪し、一緒に参加することが出来た。名前は逸斗(はやと)とした。「逸」という字には逃れるというような意味もあり、どうして?という話もあったが、意味としては『逸品』『秀逸』という言葉にあるように、他に比べて優れている、というような意味がある。そして「斗」はひしゃくが語源で、ひしゃくで食べ物をすくって分け与えるような意味があり、『優しい』意味を持つ言葉である。強く逞しく、でも優しい子に育って欲しい、そういう願いを込めた。あとはやはり名前の響き、漢字の見た目、画数、等々によりこの名前とした。