2月9日、飛行機(KLMオランダ航空)でアムステルダムを経由してアテネに飛ぶ。到着は何と23:55。もちろん宿探しはできないからホテルを日本で予約していった。が、もちろんバスはもうなく、タクシーを使わなくてはならない。これはどこでも言えることだが空港からのタクシーはいろいろなトラブルが発生しやすい。この旅行でまず最初の難関と言えるだろう。とりあえずホテルの名前を告げて走り始めたのだが、どうも運ちゃんが良く英語が理解できないらしく、こちらが「いくらくらいかかる?」って英語で聞くとメーターを指差すだけ。いやそれはわかってるって・・・(^^;;;まあそれはいいとして、30分ほどたってホテル近くに到着。すると向こうの道路を指差して「ねいむ、すとりーと」だって。???何いってんの?よくわかんないけどホテルに到着。料金は6000ドラクマ。まあ三千円ほど。ガイドには2000ドラクマくらいと書かれてたからちょっと高めだったけど、荷物代と深夜料金とでまあそんなものなのだろう。
10日。今日はデルフィ(ギリシャ神話の世界で全世界の中心地と考えられ、「大地のへそ」と呼ばれる石があり、そこで神託が行われていた場所)に行こうと宿を出てバスに乗り込むが、そのバスのシステムが良く分からない。どうも市内バスと長距離バスのシステムが異なり、違う会社が運営しているらしいということはガイドを見て知っていたので、ある長距離バスターミナルに行く市内バスに乗り込んだのだ。バスターミナルというから終点に違いないと勝手に思い込んだ僕たちは全然関係のない郊外へと行ってしまったのであった・・・(^^;;;いやあ情けない。それで時間を過ごしてしまったため、ゆっくり観光できるはずのバス(長距離、デルフィ行きのね)に乗り損ね、仕方無しにアテネ観光に切り替える。で、とりあえず行ったのが国立博物館。ギリシャ最大の博物館だけあってとにかく広いし知ってる作品が多くてなかなかすごい。でもやはり退屈なのは俺の芸術への関心の薄さからくるものなのか・・・。昼飯後アクロポリスに行き、パルテノン神殿を見学しようとするも職員のストのため入らせてもらえない。どうもあの日はついてなかった。その後で行ったリカヴェトスの丘でもあると聞いてたケーブルカーがどこにもない。結局なんとアクロポリスから丘の頂上まで歩いていったのである。後で知ったのだがケーブルカーはオフシーズンの2週間ほど閉鎖中であった。まあ晩飯ではそれなりに豪華にシシカバブやムサカといった名物料理を食べ、初日を終えたのだった。
11日。今日こそはとデルフィに向かう。前日の失敗の教訓もあって途中から運転手に「バスターミナル?」を連呼。その甲斐もあって無事デルフィに到着できた。で、デルフィの遺跡だが、後から考えてみると何個か見た遺跡の中で最も素晴らしい遺跡だったかもしれない。それほどこの遺跡は素晴らしい。特にアポロン神殿、劇場、スタジアムと続くところはまさに圧巻。3000m級のペルナソス山に囲まれた遺跡から見える景色と共に「異国に来たんだなあ」ってな感慨が沸き上がってくる瞬間であった。(ちょっと大袈裟?)その後遺跡に付属している博物館に行ったのだが、そこの入場料は「ADULT1200Dr,STUDENT600Dr」なのだ。つまり学生は半額になるってんで、もちろん俺は国際学生証を見せた。するとそこの受付のおばさんその学生証に「1996」って書いてあるから向こうだって言いやがんの。それは明らかに「1996年度」の意味。その下には「valid to 31 March 1997」ってちゃんと書いてあるんだから。そこを見ろって何回言っても聞きやがんない。まったくなんてこったい。ともかく、しかたなく1200ドラクマ払って中に入る。そこでは「大地のへそ」の石が展示されてあった。ほとんどがデルフィから出たものばかりだったためか展示物の数はそんなに多くはなかった。だがそれくらいがちょうどいいかなという感じでもあった。結局往復で7時間ほどバスに乗ったことになるわけで、やはりなかなか疲れた日ではあった。
12日。アテネから見て西側にはコリントス運河によって今や本来の意味での半島ではなくなってしまったがペロポネソス半島がある。そこには交通の便は悪いもののオリンピアやスパルタといった世界的に有名なところが数多くあり、どうしてもここははずせないということでこの日に半島のど真ん中に位置するトリポリという街に移動することにしていた。ただこの街は観光するところは何もないため、ガイドブックには宿の紹介など何もなく、完全に自分たちだけで探さなくてはならなかったため、少し不安であったのは確かだった。とはいえ、朝から出かけると早く着きすぎるだろうということで、昼過ぎまではホテルに荷物を預けておいてアテネの観光をすることにした。で、もちろん向かったのはパルテノン神殿。でもまたストで入れない。まあまたアテネには戻ってくるしその時に見ればいいかということで、古代アゴラに向かう。アゴラとは古代ギリシャ語で広場の意味で、昔みんなが集まって経済活動をしたり雑談をしたりということをした場所である。ローマにおけるフォロと同義であるが、フォロには凱旋門などほとんどが誰かをたたえる建造物だったのに対し、ここでは神殿や音楽堂、ストア跡など政治、文化、宗教的施設が多く、もっと生活味がある感じだった。その中でも特に素晴らしかったのはやはりヘファイストス神殿。ギリシャでもっとも原形を残している神殿であり、アゴラの中でも小高い丘の上に立っていてどこからでも眺めることができた。その後ローマ時代のアゴラにも行ったがこちらは大した事はなく、トリポリへと向かう。結構遠いと思っていたのだが二時間ほどで到着、そして気合いを入れてホテルを探すが、最初に入ったホテルで決定。ちょっと拍子抜けしてしまった。結果的にはあまりいいホテルとは言えなかったのだが、この街には安宿はこのホテルくらいしかなく、正しい選択だったといえるだろう。その日は時間が余ってしまったこともあり、トリポリを散策するがちょうどシエスタの時間に当たってしまったために人は歩いてないわ店は閉まってるわでどうしようもない。しかたないから宿に帰って洗濯をしたのだが慣れないことをやったもんだから絞る時に左手の親指の皮をむいてしまった。はあ、情けない・・・。
13日。この日は本当にひどい一日だった。この日はスパルタとミストラを観光する予定だったのだが、間違いの根本はトリポリからスパルタに向かうバスにあった。ガイドブックで見る限り2,3時間はかかるだろうと思っていて、それくらいたってふと外を見ると海が見えるではないか。???ペロポネソス半島の南の端であるギティオという街に来てしまっていたのだ。つまり倍くらいの距離を来てしまっていたというわけ。それからまたスパルタ行きのバスを待ってスパルタに着いたのは何と三時。それから急いでミストラに行ったものの開いてたのは3時までだったらしく、むなしくも帰ることに。帰りのバスをお菓子でも食べながら待っていたのだがもしかしたら乗ってきたバスが最終バスだったかもしれないという不安に駆られ、歩いてスパルタに向かうことに。途中スパルタまで6キロという看板があったからそれ以上歩いたことになる。途中でバスにもすれ違ったからなんとも無駄なことをしたことになるわけだが、スパルタの町に入ってからバスターミナルの場所が分からなくていろいろな人に道を尋ねて話ができたので結構楽しかった。最初に聞いた高校生くらいの男の子は「straight」しか言わなくて、こちらが「right?left?」と聞くと「straight.straight.straight.」だって。まあだいぶ遠いんだろうなということしかわかんなかった。ある大学生くらいの女の子は途中まで案内してくれて、あと真っ直ぐというところまで来て「go straight and you see at left.」って右手を出しながら言うわけ。「right?」って俺が聞くと、苦笑いしながら訂正してた。やっぱりギリシャ人にとっても英語は異国語であることに違いないんだなあって実感した。最後に聞いた人はあたかも日本人に聞いたかのような感じで、すごいおどおどとして、たどたどしい英語で一生懸命教えてくれた。ものすごいいい人という感じで、一気にギリシャの印象が良くなった。とりあえずターミナルでチケットを買った後、スパルタの遺跡を見に行こうとするがまた道に迷う。今度は向こうから話し掛けてきてくれた兄ちゃんが遺跡は自分の家の近くだからと案内してくれた。ただ、もう暗くなりかけていて、遺跡にはそろそろホームレスの人たちがくる頃だから今日は止めとけといわれ、入り口の像を見て帰ることになった。良く考えてみると何も観光ができなかった一日だったわけだが、まあギリシャに一番触れたということで、良しということにしておこう。
14日。地図で見るとトリポリからスパルタまでもオリンピアまでも同じくらいの距離なのだがこの日オリンピアまでかかった時間は何と3時間半以上。行きのバスでは途中のバス停で大挙して乗ってきた女子学生におもちゃにされた。最初はギリシャ語でいろいろと聞いてきてたが、全然わからなさそうだとわかると今度は英語でいろいろと一生懸命聞いてくる。「where are you from?」に始まって「do you like Greece?」「how old are you?」「what is your name?」果ては「are you married?」だって。良く考えてみるとこの日はバレンタインデー。まあしかたないところかとあきらめていちいち答えていた。最後には食べかけのお菓子を「this is present from me.」だってさ。ちょっと辛目のスナック菓子だったが、まあバレンタインにお菓子を女の子からもらったことには違いないか・・・(^^;;; そんなことをしている途中では人のよさそうなおじいさんが近づいて来て俺の横に座っていた北尾を指差して俺に対して「your girlfriend?」だって。慌てて否定すると「oh!I'm sorry.I made a mistake.」だとさ。間違うかって。そういうのもバレンタインデーならではなんでしょう。なんとなく貴重な経験をしたようなバスであった。オリンピアの遺跡は競技場があるだけかと思いきや、神殿も2つほどあり、他にもいろいろと建造物が保存されており、デルフィと同じくこんな辺境の地に良くこんな物を建てる気になったなという感じだった。デルフィは大地のへそだったが、オリンピアはどうもギリシャのポリス世界の中心と考えられていたらしい。まあとはいえ一番の見所はやはり競技場。オリンピックの聖火はいちいちここで取られていくのだ。かなり広い競技場で、まさにオリンピック発祥の地としての威厳十分という雰囲気だった。その後博物館にも行ったのだがゆっくり見たつもりでも全然時間が経ってなくて2時間ほど時間を持て余してしまった。
15日。この日は半島からアテネへの移動日。朝から中にホテルも探して、勇んでパルテノン神殿に。今日こそは!と思っていたのだがまだストライキ。これでおそらくパルテノン神殿内部を見る機会は未来永劫潰えただろう。仕方無しに失意のまま、ゼウス神殿とアテネ競技場を見に行った。アテネ競技場は第一回近代オリンピックが開かれたところで、思っていたより見る価値のあるものだった。すべて大理石で作られた客席、馬蹄形の構造、正面には手すりのついた豪華な客席が二つ。そこから見たパルテノン神殿はまた哀愁漂うものだった。(見れなかったからね)この日は全くこれだけ。晩飯はシャークフィッシュフライ。サメなんだろうか?妙にうまくてはまりそうだった。
16日。コリントス観光。コリントスの遺跡はほんとに広大で、目玉であるアポロン神殿以外にも東西南北に長く商店が入っていたところが残り、まさに経済活動の場という感じを強く受けた。出口付近の浴場後の近くには水洗便所跡が残っており、むろん今のようなものではないが穴が空いた石とその前に溝が入った石があり、その穴から用を足し溝に水を流したらしい。その構造はどうしても納得できなかったが、とにかくその頃から水洗便所があったわけで、すごい文明ではある。博物館には銅像などが展示されていたのだが、中庭にも展示物がある。そこは雨風に吹かれるわけで、何のために博物館に入れているのか非常に疑問だった。それならばどうして元あった場所に戻さないんだろう。僕としては銅像とかは遺跡の中でどう活かされているかとか全体としてそれがどういう意味を持っているかとかそういう事の方が興味があるので、建物の中に入れて保存しなくてもいいものは何とかして元あった場所に戻して欲しいものだ。で、その後ミケーネの遺跡にも行く予定だったのだがコリントスから直接ミケーネに入っていないといわれ、一回アテネに戻ることに。その後もう一度ミケーネに行く時間はなく、仕方無しにピレウスに港を見に行く。大した事はなかったのだが、たまたま入った大聖堂でミサをやっていて、これまで見てきた国々でのミサとはいろいろと違いがあって興味深かった。具体的にはこれまでに見たミサは大体聖書のようなものを牧師さんが読んで、時には聖歌隊なんかが出てきて歌を歌うみたいなものだった。ところがそこで見たのは二人の牧師さんが掛け合いのような形で歌のようなお経のような何か教えなんだろうけど、を延々歌い続けてた。ギリシャ正教のミサは全部そうなんだろうか?この旅行でミサを見たのはこれ一回だけだったから確認する術はないが・・・。
17日。7時3分という早朝発のインターシティでギリシャ第二の都市テッサロニキに向かう。昼過ぎにテッサロニキ駅に着き、そこでイスタンブールまでのチケットを取ろうとするが考えていた電車はないといわれてしまい、仕方無しに中継地点であるアレクサンドロポリまでのチケットを買うことになる。後で考えるとそれがトラブルの元になってしまったんだけど、その時はそんなことを知る由もなかったんだな。その後ホテルを探して18日のメテオラ行きのチケットを買うためにメテオラ行きのバスターミナルを探すことになるが、これがまた大変だった。まず昼飯を食べたところのレストランの姉ちゃんにいろいろ調べてもらったのに始まってその後いろいろと人に聞きまくってうろうろすること約二時間。15人ほどの人の案内を経てようやく辿り着けた。北ギリシャのバスのシステムは南にも増して複雑そうであった。とにかくこれでメテオラには行けそうだという話になって安心して晩飯にしようとしたのだがこのテッサロニキという街はクレジットカードの使える店がない。この旅行ではずっとそうだったのだが、お金をちょっと作り足りなかったらしく、途中からできる限りクレジットカードを使うようにしていたのだ。この街でもこれだけ大きい街だから一件くらいあるだろうと思ってこの日も随分探したのだがついに見つけられず一件の大衆食堂に入った。ちなみにギリシャ料理は全般にうまいものが多い。ところがこの日の大衆食堂で食った料理はすごく重くて胃にもたれた。初めてはずしたという感じだった。
18日。前日に買ったチケットでメテオラに出かける。昼過ぎには宿を決めてタクシーで頂上へ。メテオラとは世にも不思議な巨石群のあるところで、伝説では大神ゼウスが怒って投げつけた岩がそのまま残ったというほどで、科学的にも水や風の侵食作用だろうということくらいで、本当に全く解明されてはいない。とにかくそういう巨石群の上に14世紀頃、ギリシャ正教の修道士が修道院を建てたのである。そんなところにどうやって建物を建てたのかも疑問であるが、そういう気になったというのがまず驚異的である。確かにそこに人が行くには岩をよじ登っていくか袋に入れられて上から引き上げてもらうしかないわけだから俗世とは完全に隔絶されることは確かである。今はバスなどの車がすぐ側まで行けるように道路が作られ、修道院までも階段や橋が作られて自由に観光できるようになっているが、そうした物が作られたのも今世紀初めだというから壮絶である。僕たちが行った時はオフシーズンということもありバスは一日二便しかなかったらしく、当てにならないのでタクシーで行ったのだが、ものすごい霧。何も見えない。とはいえ、しかたないのでメガロメテオロン・ヴァルラーム・アギア・トリアダ・アギオス・ステファノスと回り、最後のアギオス・ステファノスだけ内部を見学できたが、とにかく霧のせいで何も見えない。19日に期待しつつ帰ろうということに。ところが、バスどころかタクシーなんてある訳がない。あるのは自分の足だけ・・・なんと宿まで約10キロ。・・・(__;)
19日。ちょっと曇ってはいるものの巨岩群ははっきりと見て取れる天気になった。はやる気持ちを押さえてリコンファームを済ませ、タクシーに乗り込む。昨日の苦い経験から、タクシーに帰りは迎えに来てもらおうと思っていたのだが・・・頂上で英語で交渉しようとして唖然。何と全くといっていいほど英語を解しない運転手だったのだ。とにかく全修道院を回ったら10000ドラクマということしか言ってくれないのだ。もう前日の二の舞はごめんだったからしかたなく10000ドラクマを払うことになってしまった。全部と言ってたのにあいてる修道院は「クローズ」とか言われて見学させてもらえないし、それに文句を言おうにも言ってることをわかってくれないもんだからどうしようもない。せっかく凄い所にやってきたのになんだか不満の残るものにならざるを得なかった。まあ前日の遠征で足にだいぶガタが来てたし、それで良かったんだと思うことにしておこうとは思うのだが。この日はヴァルラームとルサノスの内部を見学することができた。どちらの修道院もその歴史とそこからの景色が非常に素晴らしかった。その後バスでテッサロニキへ凱旋。この日の晩飯でついにクレジットカードの使える店を発見、20日にも使うことになった。
20日。イスタンブール(正確にはアレクサンドロポリだが)行きの電車は夜の10時20分。それまでテッサロニキを観光しようと思ったのだが、ホワイトタワー、考古学博物館はなんとストのため閉まっていた。まあもう慣れっこという話もあるが、それでもそれ以外観光名所なんて経済活動の中心地であるこの街にはない。仕方無しに城壁を見に行ったが結構遠くて疲れるし、ロトンダというテッサロニキで最も古い建造物も修復中で見学できない。教会を二個ほど行くもやることがほんとになく、メテオラ行きのバス停探しの最初の場所だったレストランに行って時間をつぶすことに。その後土産物屋を梯子しまくるがめぼしいものは何もなく、昨日の店で早めの夕食を取り、できる限りそこで粘る。最後にゆーっくり飲んだカプチーノが妙にうまかった。で、やっとのことで列車に乗り込むがシステムはやはり良く分からない。ちゃんとイスタンブールまで行くのか不安なまま、眠りにつく。たくさんの人がいるがみんなトルコまで行くのだろうか?
21日。ふと目を覚ますと下半身がめちゃめちゃ寒い。特に足の先が凍えるよう。アイマスクをはずして時計を見ると4時過ぎで周りに人はほとんどいない。どうも僕たちの指定座席ではイスタンブールまで行かないようだったのでアレクサンドロポリの少し手前でイスタンブールまで行く車両に行こうとするが車掌さんに止められてしまう。なんとか状況を説明して、イスタンブールに行きたいんだ!と言うと、国境のピスィオという駅までのチケットを切ってくれた。それ以上はトルコ領だから、切符を切るわけにはいかないんだそうだ。で、ピスィオの駅でいったん降りてチケットを買い足すように念を押されてイスタンブールまで行く車両に乗せてもらった。夜も明けた7時ごろ、ピスィオ駅に着くが、最初それがその駅だとは気づかずにボーッとしていて、パスポートを車掌さんに渡してからやっと気づいた。やばいじゃあないか。とはいえ、列車から降りて電車が発車してしまっても困る。友達を列車に残して駅に走るが、ちょうど車掌さんが戻ってくる時に重なってしまい、戻るように言われてしまった。説明しようとしても後で行くからと取り合ってくれない。そしてついに列車は発車。これ以上の切符は持っていないというのにである。そしてトルコ側の最初の駅、つまり入国審査の駅に到着。そこでついに検札が・・・。そこで説明すると駅に行って買ってくるよう指示され、残り少ないドラクマで何とかチケット購入に成功。めでたしめでたしといったところ。ふと返してもらったパスポートを見るとギリシャ出国の査証のはんこが列車マークをしていて妙にうれしかったのを覚えている。で、ついに2時半頃イスタンブールに到着。とりあえずアヤソフィアを観光。このモスクは昔ビザンティン帝国最盛期に当時の技術を駆使して作られた大聖堂で、その後オスマントルコに敗れて以後モスクとして使われていたものである。中は完全にモスクなのだが、一部壁がはがされた所からキリストの絵が見えていたりして、非常に興味深い建造物であった。それはよかったのであるが、そのアヤソフィアとトプカプ宮殿、ブルーモスクという界隈はものすごい観光地であり、日本人の姿も多い。そうした事につけこんでか、日本語で話しかけてきては俺の店にこないかと誘う輩が妙に多い。とにかく声をかけてくる人毎がそれだから非常に疲れてしまった。早くオランダに行きたい〜などと考えている自分に気づいたりもしていた。で、泊まったホテルであるが、これがまたひどい。お湯は出ないは夜は寒いはいいところがない。文句を言っても何もしてくれない。何とか対策を考えなくては。
22日。朝まずしたのはホテルを変えたいからと3泊分の料金を払っていたにもかかわらず2泊分の料金を返してもらうことだった。そして倍近い値段の宿に変えたのだが、サービスはやはり金で買うものらしい。またお湯が出なくて文句を言ったのだが、こちらはちゃんと対応してくれ、なんとかシャワーを浴びれるようになった。23日は何も言わなくてもちゃんとお湯が出たからそれなりに良心的だったのではなかろうか。さて、この日はトプカプ宮殿の観光。朝から何も食わずに行ったので途中でどうにも我慢できなくなり、宮殿内にあるレストランへ。おそらくこの旅行でもっとも高級なレストランではなかっただろうか。トルコでそれも昼食で2000円ほど使うというのは全く驚異的なことなのである。宮殿自体は悪趣味な金持ちの家を見させられているという感じで、僕にはどうしても良かったとは思えなかったが、北尾は満足していた様子だったから見る人によるのかもしれない。その後地下宮殿に行ったが、こちらは文句無しに良かった。これは郊外から運んできた水を溜めていた所で、全く宮殿のように柱が立っているのである。ガイドブックで見る限りはもっと狭いものかと思っていたのでその広さとその妖しさに大満足だった。中には喫茶店もあり、チャイを飲んだ。チャイというのはアメリカにおけるコーヒーのように、とにかくトルコ人はよく紅茶を飲む。昔はトルココーヒーだったらしいが、最近は高くなったために紅茶になったらしい。それが普通の紅茶とどう違うのかは僕にはちょっと分かりかねたが、確かに何かが違うような感じだった。(さっぱりわかんねぇな。)
23日。旧市街の観光は前日までに済ませていたのでこの日は新市街の観光。新市街は交通機関が面白い。世界一短い地下鉄やら妙に可愛い路面電車が走ってたり。そうしたものとバスを駆使してまずはドルマパフチェ宮殿へ。この宮殿はトルコっぽくはなかったが豪華絢爛で、ヨーロッパでもいろいろと宮殿に行ったが最も良かったかもしれない。ガイドの人の英語もなかなか聞きやすくてわかりやすかった。その後ガラタ塔へ。ここから見える旧市街と金角湾、ボスポラス海峡は素晴らしいの一言。これぞイスタンブールという感じか。あれを見ないと帰れないですなぁ。その後、北尾がお土産を見たいということで郊外にあるアクメルケズデパートへ。凄い近代的なショッピングセンターで、ウインドウショッピングを楽しめた。で、晩飯。この日は妙に腹が減ってたのでロカンタ(大衆食堂)で水と料理7皿を二人でたらふく食べたにもかかわらず料金は何と500円ほど。多分何か計算間違いをしていたのだとは思うが、この国は食事事情は最高である。
24日。この日は完全な移動日のため、やることがない。別にもう観光するものもないし、10時過ぎまでホテルでごろごろして空港に向かう。チェックイン後、北尾がカスタムコントロールへ。すぐに終わるはずなのになかなか帰ってこない。俺が暇そうにしてると、空港の職員の人が話しかけてきてくれて最後には「チャイでも飲む?」ちょっと大丈夫かどうか悩んだんだが空港の職員がまさか変なこともしないだろうといただく事に。初めて本物のチャイを飲んだような気がした。で、北尾が何をしていたかという事だが、ものすごいトラブルにあっていた様子。そのまま空港を出てしまったというのだ。チェックインした後だというのにである。自分で修羅場を見てきたといっていたから相当凄い経験だったのだろうが、僕には知る術はない。で、アムステルダムに飛行機で到着。窓から見えたアムステルダムの街は本当に奇麗だった。
25日。アムステルダム観光。とりあえずホテルに近い所にあったアンネ・フランクの家を見に行く。あのアンネの日記のアンネである。実は恥ずかしながらその隠れ家がアムステルダムにあったとは知らなかった。さらに行ってみてこんな大都市の中心地だとは思わなかった。だいぶ修復されていたがその家の構造など良く保存されており、特に本棚の扉は有名であるが、そこまでさせた戦争の悲惨さというものを再確認させられた。しかし思ったよりも居住空間は広く、少し意外であったが、下の従業員に聞こえないように生活をしなければならなかった事を考えるとやはり快適とは程遠い生活だった事だろう。アムステルダムの家は地盤が緩い所に建っているため、木造であり、保存が難しく、その完全保存には多くのお金がかかるそうだ。気持ちだが、半端であった2ドルを寄付してきた。その後新教会に行ってみると何かキャサリーナ展とかいう特別展をやっていて入場料を取られてしまった。その展示も良く分からなかった割にはなかなか良かったが、それ以上にその教会は今までのものとは違って要所要所に木を使っていていい感じだった。ただ、その後行った王宮には何者もかなわないだろう。素晴らしい日本語の説明書のおかげもあって非常に面白かった。この建物はいまだに王宮という事になっているがもともと市庁舎として建てられたもので、それぞれの部屋にその役割に合わせた絵や彫刻が置かれてあり、とても興味深かった。例えば判事室には「罰を下す正義」という絵があったり、市評議会室には助言を与える事を主題とした絵があり、破産室にはロウでつけた羽根で空を飛んでいたイカロスが太陽に近づきすぎて墜落死した事を主題としたレリーフがあったりした。中でもメインホールである「市民の間」はそれ自体が宇宙を主題にしており、見るものを圧倒する。全く凄いホールである。この王宮の入場料200円というのは限りなく安かった。もしかするとこの旅行で最も良かった可能性すらある。で、その後国立博物館まで歩いていく。結構遠かったのだが、この街は本当に奇麗な町で運河が町中を網羅しており、運河沿いに歩いていると全く飽きがこない。さらに家の形がおもちゃの様で可愛いという表現がぴったりで、それを見ているだけでも十分退屈しない。まあ博物館自身はそんな大した物はなく、有名どころはレンブラントの「夜警」で終わりという感じだった。ただ、一階にあったナポレオンの絵やワーテルロー合戦の絵、他にも長崎の出島関連の部屋は興味深かった。何と出島の模型が置かれてあった。オランダと日本との深い関係を思い出させてくれる博物館であった。で、ゴッホ美術館をどうしようか迷ったのだが入場料が結構高い事もあって割愛する事に。それからまた街をうろついて、晩飯。最後のディナーという事で、豪華にワインから入るステーキのコース。ウエイトレスの姉ちゃんが気さくな人で、それもあって最高のラストディナーだった。
26日。またまた三時のフライトまでやることがない。トルコと違ってまだまだ見たかったのでとりあえず運河を巡る一時間クルーズに参加する事に。進行方向に向かって右側に座ってたのだが、放送で紹介される見所はほとんど左側。さらに悪天候も重なってちょっと納得できかねる内容。で、やはりというか時間が余り、ぶらぶらした後、早速空港へ。帰りのフライトは前の旅行とは違って前日快適なホテルで十分に睡眠をとっていたせいか全然寝れなかった。国際便で眠れないのは本当に辛い。まあミッション・インポッシブルとティン・カップを見れたから良しとしておこうか。