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城名 |
由来・遺構・エピソードな |
弘前城 近世 平山城 日本百名城:4 |
![]() 堀越城にあった津軽為信が1601年に起工、輪郭式城郭であった。東北で唯一天守が現存する城跡であるが、1608年には五層の天守が存在し、現在の天守は1810年に隅櫓を改造したものであり、もともと御三階櫓と呼ばれた櫓であった。天守のほか、三基の三重櫓、櫓門五棟が残り、各櫓が柿葺(こけらぶき)であったことも特徴となっている。 *弘前大学のページ ![]() 問題は天守。数少ない現存天守の一つであり、相当期待して行ったのだが、正直言って、幻滅した。現存天守は、当たり前だが昔からの雰囲気をそのまま残しているべきである。ところが、この城の天守には、展示棚が無理やり入れられている。何も現存天守で鎧やら刀剣類を展示しなくてもよいのではないだろうか。階段には昔からの手摺りに加え、添え木のような形でさらに手摺りがつけられてある。現存天守は、現存であるが故に、階段が急であったり、狭かったりすることが多い。それが危険だという判断なんだろうが、貴重な遺構に手を加えるのは賛成出来ない。そして極めつけは、緑の滑り止めシートが床一面に張られていること。これも危険だという判断からだと思うが、これはひどい。昔からの雰囲気を味わうどころではない。 加えて、これは致し方ないところではあるのだが、城の全体がつかみづらい。城地があまりにも広いこと、石垣が少なく、堀も途中で切れており、また土塁による縄張りが中心でスパッと分かれていないこと、あたりが原因と思われるが、全体感をつかむことが好きな人間にはこれも若干残念な要素ではある。 とはいえ、ギリギリのタイミングで、紅葉を見ることができた。次回は是非花見の季節に来たいものである。(H18.11.5)
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浪岡城(D) 室町 平城 続日本百名城:103 |
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三戸城 近世 山城 |
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八戸城(E) 近世 平城 |
1629年、南部利直が築いたと伝わる。1664年、南部直房が2万石を分家して独立、八戸藩が誕生、本城を本城とした。1928年に三八城公園として整備された。![]()
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根城(D) 室町 平城 日本百名城:5 |
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高楯城(D) 戦国 山城 |
*青森大学のページ |
盛岡城(C) 近世 平城 日本百名城:6 |
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胆沢城(E) 平安 平城 |
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岩出山城(D・・・移築書院あり) 戦国 山城 |
秀吉の奥羽仕置きにより伊達政宗は会津領・米沢領を失い、大崎氏の所領を与えられ、1591年に普請に着手した城。1600年に仙台城の普請に着手するまで伊達家の本城であった。それ以後も伊達家要害制度に組み込まれ、四男宗泰を入れた。17世紀には二の丸に春学館が築かれ、のち城外に移されて学問所郷学有備館となった。現在国の史跡指定を受けている。 |
涌谷要害 近世 山城 |
戦国期に涌谷氏があり、のちに伊達家の要害制度の一つになった。政宗は重臣亘理重宗を城代とし、石垣を巡らし、櫓を上げた城郭とした。その後涌谷伊達氏の居城。今日、石垣と櫓である太鼓堂が大手口に残る。 |
多賀城(C) 古代 平山城 日本百名城:7 |
![]() ![]() まず、申し訳ないけれども、田舎であまり家も建っておらず、広大な敷地が更地で残っていること。外郭南門跡から政庁跡まで、約500メートルあるのだが、それが一直線に見ることができる。何か建物が復元されているわけではないのだが、こういう広い遺構ではこういうことが非常に重要だと思う。広いという意味では吉野ヶ里遺跡も広かったが、あまりにも手が入り過ぎていて逆によく分からなかったので、多賀城はそういう意味で成功していると感じた。看板や説明版も整備されていて、散策するのに全く支障はなかったし、駅前には観光案内所すらあったわけで、観光地化を目指しているのかと思ったが、観光客はおそらく私含めて2~3人だった。建物を復元したりすれば人は来るかもしれないが、古いが故の良さが失われてしまう。この手の遺構は見せ方が難しいんだろうと妙に考えてしまった。(H29.12.16) |
仙台城 (青葉城) 近世 平山城 日本百名城:8 |
![]() 現在は大手門隅櫓が外観復元されているが、山の中腹にある本丸跡には石垣が残るのみである。 *東北大学のページ ![]() 近くには青葉城史料展示館があり、そこでは往時の青葉城の状況をCGで再現した映像が見られる。(700円)映画のようにぐいぐい動くので、ゆっくりじっくり見ることが出来なかったのが残念だが、それなりに見る価値はあるものと思われる。その後、一応復元されているという大手門隅櫓を見に行ったのだが、信号機の横にひっそりと立ち、車が通る他は全く誰も見向きもしない。少しかわいそうだった。(H11.9.5) |
白石城 近世 平山城 |
![]() 天守代わりの御三階櫓は明治7年に取り壊されたが、平成7年3月に完全木造で復元された。(入場料400円)それと共に、大手一の門、二の門、櫓廻り土塀、門廻り土塀も復元されている。 *白石市観光協会 ![]() ちなみに、この日、城の隣にある白石高校では文化祭らしく、結構騒々しかった。また、この後、一條旅館(鎌先温泉)で温泉に入り、白石温麺(うーめん)を食べて帰路についた。なかなか充実した白石観光であった。(H11.9.5) |
相馬中村城(A) | 歴代小高城にあった相馬氏が近代大名として1611年に着工、要所要所に石垣を組み、三層の天守を上げた。現在、大手高麗門と本丸の石垣などが残っている。 |
二本松城 近世 山城(345m) 日本百名城:11 |
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会津若松城 近世 平山城 日本百名城:12 |
![]() 幕末戊辰戦争において約一ヶ月の篭城戦を演じるも、明治7年には陸軍省の命令により取り壊されることとなる。その後旧会津藩士らの尽力により陸軍省から払い下げられ、昭和9年には国から史跡指定を受け、昭和40年には天守閣が外観復元された。広大な縄張りは東日本一の規模と言われる。 *会津若松市観光公社 *「会津鶴ヶ城の四季」 ![]() ただ、コンクリ天守閣はもう致し方ないところで、内部の装飾が少しは木を意識した造りになっているのがせめてもの救いだろうか。史料展示館としてはそれなりに見る価値のあるものではあるだろう。 また、本丸の東南隅にある茶室「麟閣」は非常に趣がある。これは蒲生氏郷が千利休の子「少庵」をこの城にかくまい、その時に作られた茶室である。創始者が秀吉に死を命ぜられて危機に瀕していた千家茶道は、氏郷の嘆願により受け継がれ、後の表・裏・武者小路の三千家へとつながったと言われる。建物では唯一の現存物であり、絶対に見るべきである。ここではお茶菓子とお抹茶を頂くことができ、静かな気持ちで天守閣を眺めるのも良いものである。(H11.9.3) |
厳山城 戦国 水城 |
伊達氏の家臣の居城。裏磐梯桧原湖の中に半島のように飛び出た部分にあった。![]() |
白河小峰城 近世 平城 日本百名城:13 |
![]() *白河市 ![]()
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三春城 | ![]() ![]() |
平城(D) | 1603年岩城氏領に入った鳥居忠政が起工した本格的な近代城郭。天守に代わる御三階と七基の櫓が上がり、大手曲輪は出枡形で巨大な石づみからなった。現在大手石垣・濠の一部が残っている。 |
鴫山城(D) 戦国 山城(749m) |
阿賀野川の支流である大川上流にある城跡。当城は南北朝末期から戦国期にかけて国人領主長沼氏が本拠とし、さらに上杉・蒲生氏が拡張を重ねた。 |
久川城(D) 戦国 山城 |
阿賀野川の支流である只見川北部にある城跡。伊南の国人河原田氏が伊達軍の進攻に対して1590年に築いた城で、秀吉の小田原・奥州征伐の原因の一つになった。当城は南北約500m、東西約150mの山上を削平し、西側を削り残して天然の土塁とした。 |
水窪城(E) 戦国 山城 |
阿賀野川の支流である只見川南部にある城跡。伊北の国人山内氏が伊達軍の進攻に対して大塩城と共に死守し、秀吉の小田原・奥州征伐の原因の一つになった。 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
秋田城(E) 古代 続日本百名城:107 |
![]() ![]() しかし東門の外側にある水洗トイレは驚いた。奈良時代に水洗トイレがあったとは。当時、中国の東北部にあった渤海国との交易をしていたと言われており、渤海の商人に使ってもらっていたのだろうか。資料館には、水洗トイレで使っていたと思われる木の棒が展示されている。これでお尻を・・・?いろんな意味で想像を掻き立てられるというか。 総括すると、お城ファンの気持ちを高揚させる城ではないものの、日本史好きの人間の興味をそそるには十分と言える城だった。多賀城ほど広範囲ではなく、コンパクトに見ることができるのも良い点と言える。観光客はほぼ皆無だったが、資料館の受付にいた3人の女性、一日暇だろうなぁ・・・(R4.8.8) |
横手城 | 1550年ごろ、小野寺氏によって作られた城である。1868年戊辰戦争の際に落城。現在は昭和40年に展望台が建てられている。 |
上山城 | 最上氏の最南端の城塞 |
久保田城 近世 平城 日本百名城:9 |
![]() ![]() そのすぐ横には表門。非常に立派な門で、25万石の居城に相応しいものということなのだろう。少し不思議だったのは、門の前に石段があること。石段を上った先に門がある。寺の山門的な雰囲気。そこを抜けると本丸なのだが、佐竹義尭の銅像がある以外、特に何があるわけでもない。奥に進むと、御隅櫓が再建されて建っているのだが、周りにある木が鬱蒼としていて、御隅櫓が全く見えない。近くまで来ないとそこに建物があることが分からない。シンボルとして再建したのだろうに、なんだか目的に沿っていないような気が。スタンプ押しがてら、中に入ったが、申し訳ないが、佐竹の変遷と言われても華やかさに欠け・・・城の模型は面白かった。 と、否定的な意見ばかり書いてきたが、秋田駅のすぐ近くにこれだけの規模の城跡があり、よく保存されているのは素晴らしいことだと思う。歴代の城主が全国的にネームバリューがある人がいないので、なかなかアピールが難しいのだろうと思う。市民の憩いの公園として、末永く地本の人に親しまれればいいのにと思う。 ちなみに、帰り、駐車場から出ようとして、200円を機械に入れたのに何も反応せず、警備会社に電話して来てもらった。葉っぱが入ったり、中に蜘蛛の巣が張って、そうなることが良くあるんだそうな…(R4.8.8) |
脇本城(C) 戦国 山城 続日本百名城:106 |
![]() ![]() 帰りは天下道と言われる道を辿って、菅原神社まで下りた。本当の古道という感じで、一部危険かと思われるところもあったが、雰囲気は抜群。地味ではあるが、非常に興味深い城であった。(R4.8.8) |
松山城(A) | 鶴岡藩の支藩として1779年に築かれた城である。非常に小さな藩だったのだが、立派な櫓門が残っている。酒田の豪商本間重利が1794年に寄進したもので、銅鯱が載る県下唯一の城郭建築遺構である。 |
鶴ヶ岡城(D) 近世 平城 |
古くは大宝寺城と呼ばれ、武藤氏の居城、のち最上氏の持城になった。近世になって酒井忠勝が入城し、1622年から改修工事を行い、部分的に石垣を伴う馬出虎口を配した城郭とした。今日、本丸一帯の塁濠が残り、外側には致道館が残る。 |
山形城 近世 平城 日本百名城:10 |
戦国大名最上義光の居城。近世城郭への改修は1592年から行われていたが、関が原の合戦で徳川方についた義光は更なる改修を許され、慶長末年までに13基の隅櫓と1基の太鼓櫓をあげ、二の丸に天守に代わる御三階櫓を上げた。最上氏は1613年に断絶、その後保科,松平,奥平,堀田,秋本氏らが入封。現在遺構としては二の丸の石垣・土塁・空掘が残る。![]() |
米沢城(D) 近世 平城 |
![]() 現在本丸の土塁と水濠が残るくらいであり、城跡は上杉謙信と景勝を祭った上杉神社となっている。代々の城主がほぼ創始者と言えるこの二人を神格化していったために、結局は神社の形態になったということのようだ。 *米沢市のページ ![]() |
上山城 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
唐沢山城(C) 戦国 山城(230m) 続日本百名城:114 |
![]() 1602年江戸で明暦大火が起こった際、唐沢山城からいち早く見つけ、江戸に見舞いに駆けつけたところ「江戸を見下ろすところに居城するとは許さん」と廃城の沙汰が下り、まもなく佐野家は取り潰しとなったと言われる。 遺構としては石垣が本丸・二の丸・水の手・大手枡形等に残る。
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足利氏館跡(C) 日本百名城:15 |
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栃木城(D) 戦国 平城 |
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宇都宮城(E) 近世 平城 |
![]() 土塁や堀などの遺構が若干残されていたが、戦後の宅地化・都市化により、本丸の一部以外は破壊、その後『御本丸公園』として整備されるが、その際に残っていた遺構までも破壊して公園化を推し進めたため、現在はほとんど遺構と呼べるものは残っていない。なお、平成18年末を目処に土塁と空堀と櫓2基を復元工事中。 *「よみがえれ!宇都宮城」市民の会ホームページ *栃木の城+α *ザ・登城 ![]() |
烏山城(C・・・移築城門あり) 室町 山城(202m) |
![]() 遺構としては古本丸・本丸・二の丸・中城・北城・西城・若狭曲輪・太鼓曲輪等が保存され、二の丸吹貫門から常盤曲輪にかけて石垣がよく残る。野上には搦め手門が移築保存される。 *栃木の城+α ![]() |
大田原城(D) | 1545年、大田原資清によって築かれ、以後何と廃藩置県まで16代326年間大田原氏の居城であり続けた。現在は龍城公園と呼ばれ、土塁等が残る。 |
小山城(D) 戦国 平城 |
![]() 現在は土塁と空堀が思川沿いに広範囲に残っている。 ![]() |
伊王野城(C) | ![]() ![]() |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
前橋(厩橋)城(D) 近世 平城 |
![]() 約百年の間、主を失った城下町は衰退したが、領民の再三の懇願により1863年、帰城が実現した。ところがその半年後、大政奉還となり廃城となってしまう。それでも廃藩置県ではここが県庁舎となり、今日の繁栄につながったと言われる。 現在、再築城跡は群馬県庁舎が聳え立っており、わずかな土塁と車橋御門石垣の一部が残るのみ。旧前橋城域はほとんどが利根川に沈んだものと考えられている。 ![]() |
高崎城 近世 平城 |
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箕輪城(C) 日本百名城:16 |
1500年頃、長野尚業によって築かれたと言われ、戦国時代にはあの長野業政の居城となった城。上州攻略を目指す武田信玄の軍勢に対し、西上州の武将をまとめて奮戦するも、72歳で業政が病没した後は、その団結も崩れ、1566年箕輪城も落城。その後武田・織田(滝川一益)、徳川(井伊直政)と支配が変わり、1598年直政が高崎に城を移したことで廃城となる。 *群馬県箕郷町 |
金山城(C) 戦国 山城(223m) 日本百名城:17 |
![]() 1996年から整備事業がスタートし、発掘調査結果に基づいた復元作業が行われている。2001年には第一期整備事業が完成。 *群馬県埋蔵文化財調査事業団 ![]() それと同時に、かなりな違和感も覚えた。この城で最も石垣の多い場所である虎口の作り方である。真ん中に階段状の一本通路があり、両側に段段に曲輪を配置、さらにその周りには多くの石垣が複雑に組まれている。しかも、その石垣が繊細というか、細かい作りをしている。その上側に本丸・二の丸・三の丸があるのだが、実城と言われるその中心部には石垣が無い。どこでも見たことの無い作りである。 看板の解説を読んで、少し納得した。「朝鮮式山城と和式山城を融合させ」ているらしい。全国に現在残っている城跡はほとんどが江戸期のものであるため、それが普通と思っていた。江戸初期に藤堂隆虎や加藤清正などの築城の名手が手がけた城がモデルケースとなり、それが一般化したということなのだろう。非常に面白い。復元工事はまだ続くようでもある、完全形が完成した時にはまた是非とも見に行きたいものだ。(H16.10.2) |
岩櫃城(C) 戦国 山城(593m) 続日本百名城:117 |
![]() ![]() 駐車場から登山路入口に行き、少し上ると前面に土の壁が現れる。近づいてみると、左に上る道がある。そこを上ると、広大な曲輪が現れる。と、この展開、意図を感じないわけにはいかない。攻め手からすると、高い土壁は相当な威圧感だろうし、その上には広大な曲輪があるわけで、そこの兵が代わる代わる上から攻撃してきたとしたら・・・これだけ時間が経って、経年劣化も進んでいるはずなのに、それでもこれだけの威圧感が残っているのはすごいことだと思う。また、その広い曲輪は「中城」というらしいのだが、本当に広大で、もしかしたらここが城の中心部で、奥の本丸は後詰の城なのかと思うほど。そしてその奥には100メートルを超えると思われる竪堀を使った一直線の山道がある。竪堀を通らせる縄張りはあまり覚えがない。そこからは三の丸、二の丸、本丸と続く。 土の城というと関東圏には北条の城が多く、その印象が強いが、この城は全く違う。明らかに手段と目的が異なるように感じた。これが武田と北条の違いなのか、もしくは真田の独自の何かなのか、良く分からないが、そんなことを感じられる貴重な城だと思う。(R7.3.24) |
沼田城(C) 近世 崖端城 続日本百名城:116 |
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名胡桃城(C) 戦国 山城 続日本百名城:115 |
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中山城(C) 戦国 丘城 |
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横尾八幡城(C) 戦国 山城 |
中之条盆地の東端、川の合流点付近にあって、自然の要害になっている。![]() |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
上田城 近世 平城 日本百名城:27 |
![]() *上田市のページ *上田城の歴史 ![]() 城跡面積は非常に広くて、本丸と二の丸を散策できる。また石垣と土塁が混在している状態で、かつての状態に近いと思われ、見ていて飽きない。櫓は1つ現存、2つは移築されていたものを買い戻して再度復元されていて、その2櫓の間にあった東虎口櫓門が復元され、一体として中に入れるようになっている。何度も解体、復元、を繰り返しているせいか、櫓の中の階段が妙に新しかったり、どこまでが本当に在りし日の姿かが分かりにくいところはあったが、それでも歴史を感じさせる木の匂いや太い柱等、構造は非常に興味深かった。 上田観光の目玉となっていると思われるが、史実に忠実に復元を進めようとしている感覚が非常に共感できる。間違ってもかつて作られなかった天守を建てたりなどしないでほしい。(そうした城跡が日本にはたくさんあるから・・・)かつては櫓門2基、隅櫓7基が存在したわけで、復元を進めるのであれば、その状態に、ということになるのかもしれないが、私の感覚としては現状維持で十分ではないかと思う。天守がないことから派手さがなく、観光地として脚光を浴びることが少ないと思われるが、こうした城こそ、是非とも全体としての保存、一段の公園整備を進めてもらいたいものである(H22.8.25) |
小諸城(A) 近世 平山城 日本百名城:28 |
![]() 天正18年仙石秀久により石垣を用いた近世城郭に整備され、城下町経営が行われた。現存天守台は牛蒡組みの野面石垣で、三層天守があった。 *小諸市のページ *甲信越のお城 ![]()
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松本城 近世 平城 日本百名城:29 |
![]() 1582年信長の武田攻略により、前身深志城には小笠原貞慶が入城。1590年、小笠原氏古河移封に伴い、石川数正が入城、築城を開始。この康長の代に完成した。関ヶ原の合戦後、小笠原氏が再入城するが、ついで松平康長が入城。直正の代に月見櫓が整備され、1642年には水野忠清が入城。その頃城下町経営が本格的に整う。 *松本城公式ページ ![]()
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高島城 近世 水城 |
![]() *諏訪市のページ ![]() 指月庵・・・上諏訪駅から1キロほど歩いたところにある旧諏訪藩別邸と庭園。かつて諏訪氏が菩提寺である温泉寺に墓参する折に休息所として利用した。かつては借景を利用した雄大なものであったそうだが、今やその面影はなく、民家に囲まれたちっぽけな庭があるだけである。(H10.9.8)
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高遠城(C) 近世 平山城 日本百名城:30 |
![]() *伊那市
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松代城(海津城)(C) 近世 平城 |
*さなだんご *真田宝物館 ![]() |
大峰城 戦国 山城 |
川中島合戦の頃築城され、1558年からは武田川の支配するところとなる。現在は「チョウと自然の博物館」となっている。 |
飯田城(B) | 坂西氏の居城であったが、武田氏に降伏し、秋山信友らが入り、改修。武田氏滅亡後、毛利秀頼が入城した。現在本丸跡が長姫神社境内であり、桜丸門、脇坂門が現存している。 |
飯山城(C) | 戦国時代、高梨氏の中野城の支城となる。上杉方の川中島方面への前進基地として、補修が重ねられた。本田氏の居城。 |
龍岡城(C) 続日本百名城:129 |
![]() *佐久市
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城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
高山城(D) 近世 平山城 |
高山外記が築城、その後金森長近が新城を築いた。金森氏が減転封された後、幕府直轄となり、飛騨支配の中枢とした。現在、山頂に石垣、堀などが残るほか、陣屋は復元整備、保存されている。 |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
郡上八幡城 近世 平山城 |
![]() *岐阜の旅ガイド ![]() |
岩村城(C) 近世 山城(721m) 日本百名城:38 |
![]() *城下町ホットいわむら
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大垣城 近世 平城 |
![]() *大垣市 ![]() |
岐阜城 戦国 山城 日本百名城:39 |
![]() *ぎふ金華山ロープウェー ![]() ![]() |
苗木城(C) | ![]() *中津川市のページ
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菩提山城(B) | あの竹中半兵衛の城。半兵衛の父「重元」は1558年、この城を奪って居城としたもの。半兵衛重治の子、重門は関が原で東軍に属し、本領安堵、城を廃して麓に館を建てた。以後、竹中氏は五千石の旗本として、明治維新まで続く。 現在は学校や役場の敷地となるが、櫓門と石垣が残る。 |
墨俣城(E) 戦国 平城 |
*大垣市 *日本の城(中部地方) |
城名 |
由来・遺構・エピソードなど |
彦根城 近世 水城 日本百名城:50 |
![]() 〈天秤櫓,太鼓門及び続櫓,二の丸佐和口多聞櫓,西の丸三重櫓及び続櫓,馬屋〉 琵琶湖に臨む寄せ集めの名城。1600年、井伊直政が佐和山城主となるが、実戦的すぎるために西の磯山に築城されたのがこの城。石垣は安土・長浜・大津・佐和山各城から運び込まれ、天守は大津城の天守、天秤櫓は長浜から、太鼓門は佐和山から西の丸の三重櫓は小谷の天守、山崎曲輪の三重櫓は長浜の天守、佐和山口多聞櫓は佐和山の天守を移築したものである。 *公式 *滋賀県観光情報 *彦根市 ![]() ![]() 特に思ったのは、この城にしても松山城にしても、天守が現存しているところと言うのは天守閣自身は不細工であることが多い。それは本物である証拠で、徳川幕府の規制であるとか、時間的に差し迫った事情があるとか、そういった本物の歴史を伝えてくれている歴史の証人なのだと痛感した。観光用に模擬天守を建てる際、勢いカッコイイ天守を作りたくなる気持ちは良くわかるが、やはり歴史を正確に後世に伝えるためにも、是非とも正確な復元をお願いしたいものだ。(H11.3.7) ![]() ![]() ![]() 表門で入城券を購入し、山道を登ると天秤櫓が見えてくる。天秤櫓にかかる橋の下を通って、ぐるっと回ってその橋を渡って太鼓丸に入るこの一連の流れ。元々一連の尾根だったところを切り取って、本丸を独立させ、鐘の丸を馬出し的に使っているようにも見えるこの構造。彦根城の導入部分だが、クライマックスと言っても過言ではない。姫路や松山も元々の山の構造を生かした作りになっているが、彦根は山そのものを城にした感じが最も強い気がする。井伊家の居城らしく、城全体から武骨な雰囲気が感じられて、本当に心地よい。また、天秤櫓には入れるようになっていて、中から外をのぞくと、各通路から来る敵をこの櫓だけですべて狙うことができるようになっていることが見て取れる。本当によく考えられた縄張りである。 太鼓門を抜けると本丸、天守が見えてくる。この天守、前から思っていたのだが、破風が多すぎる。大津城から移築されてきたものであり、改変を加えて今の姿になっているらしいから、いろいろやむを得なかったのかもしれないが、この城の縄張りとか全体から醸し出される雰囲気と天守のゴテゴテしたきらびやかな感じがどうもミスマッチな気がしてしまう。いろんな事情があってそうなったのだろうし、それが歴史の真実なのだからそれに勝ることはないのだが、いろいろと思索できるというのも名城たるゆえんなのだろう。 天守に入る。附櫓が入口になっており、石垣の切れ目から入城、重厚な鉄扉を抜けて階段を登ると、天守内部に入ることができる。天守内部は戦を想定したシンプルな構造になっている。当たり前だが階段はどれも急勾配で、それも心地よい。階段には滑り止めと転落防止と思うが、金具のようなものが敷かれているのだが、この急勾配だと、このレベルはやむを得ないかと思う。そして、破風部分に入る小さな入口がそこかしこにあって、さすがに入ることは許されていないが、見ることはできる。中には隠し狭間があって、そこから攻撃できるようになっているそうだ。破風が多いのはそういう意図もあったのだろうか。それと、大型の破風部分に当たる部屋には入れなくなっていて、「耐震構造上危ないから入場できません」という記載が。すべてが本物ならではである。 駅に向かって歩いていると、店頭に「彦根城を世界遺産に」という記載を見つけた。確かに世界遺産に推薦したくなる日本屈指の城跡である。私的には、松山と高知を国宝にするのが先な気もするが・・・。(R5.12.1) |
安土城(C) 戦国 山城(199m) 日本百名城:51 |
![]() *公式 *滋賀県観光情報 ![]() |
小谷城(C) 戦国 山城(299m) 日本百名城:49 |
*京都新聞のページ *内橋さんのページ ![]() |
観音寺城(D) 戦国 山城(433m) 日本百名城:52 |
*京都新聞のページ![]() |
大津城(E) 近世 水城 |
坂本城落城後、浅野長政が遺構を移して築いた。京極高次が在城の時、関ヶ原で大阪方の猛攻により落城。 |
長浜城 時代:戦国 形態:水城 |
*お城めぐりFANのページ *日本の城(中部地方)へ *滋賀県のページ *京都新聞のページ ![]() |
坂本城(D) 戦国 水城 |
明智光秀の居城。本能寺の変後、明智秀光により焼失![]() |
大溝城(D) 近世 山城 |
*お城めぐりFANのページ |
近江八幡城(D) 近世 山城 |
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膳所城(B) | 〈膳所神社表門,鞭崎神社表門,篠津神社表門〉 家康の天下普請により、大津城の隣地に新城を構築、戸田一西が入城。その後本田氏の居城となる。 *京都新聞のページ ![]() |
佐和山城(E) | 「治部少に過ぎたるもの、嶋左近に佐和山の城」石田三成の居城としてあまりにも有名な城。 |
水口城(みなくち)(D) 近世 平城 |
[水口藩] 中村一氏が築城、増田長盛、長束正家らが城主になったが、将軍の宿所として「御茶屋」と呼ばれた平城となり、幕府直轄の番城として城代が置かれた。その後加藤明友が入り、水口藩が成立した。> |
鎌刃城(D) 戦国 山城(380m) |
15世紀後半に築城された地元領主の居城。この城は信長に攻め落とされたが、信長が破城攻撃をした跡が見つかったことで注目された。「破城」とは石垣で築かれた城がその機能をなさなくなる様、石垣を破壊すること。石垣が築かれるようになるのは近世から(安土城以降)というのが通説となっていたが、信長が破城を行ったということは石垣を構えていたということ。鎌刃城は1974年に廃城になったとされており、安土城築城(1576~79年)以前に石垣が存在したことになる。(H11年9月8日の新聞より) |
鯰江城(E) 戦国 丘城 |
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